風刺画が引き起こす宗教戦争

昨今の風刺画騒動も漸く沈静化しているようです。
ほとぼりが醒めた頃にこの話題の感想を述べることにします。

 宗教は、精神のアイデンティティの一つだと私は思います。それは精神的に追い詰められたものが逃げる逃避の場所でもある。そして、それに安堵が得られると依存する場所になり、それが全てになる。

 このような状況は、宗教に限らずいろんな場面に存在する。それが音楽であったり、麻薬であったり、そして人間関係においても存在するのである。

 今回の、騒動はいわゆる価値観の違いによる争いであるといって良い。それを解決する方法は、交流なのか、それとも断絶なのか。

 地球は広いといっても、情報伝達のスピードが距離を縮めている現代において、隣の人と話したことが、同時刻に地球の裏側に伝わってしまう事が可能である。今回の事件も200年前のことなら、伝わるのに何ヶ月、何年掛かっていたものが、あっというもに相手側に伝わってしまうのだ。

 昔の日本は、鎖国という手段で、自国の情報を漏らさず、他国の情報も取り入れることに制限を加えた。同様に、宗教戦争を予防するためには、情報鎖国政策を進める事も方法の一つである。現に北朝鮮はそうであるし。インフラがまだ整っていないアフリカの情報も容易に取り込めていない。そしてお隣中国も、情報に限っては、国家が管理するという方法で、自国民に情報制限を加えている。

 ただしそれは、他国を疑心暗鬼に陥らせ、情報の開放政策を採らせるように圧力或いは工作を行わせる理由になってしまう。

 では開放、交流を進める事は良いことか?それもまた疑問ではある。「壁に目あり、障子に耳あり」の状況に陥らせるからである。

 なにが、争いを予防する事が出来るかというと、何も予防策は無いというのが結論である。出来る事といえば、争いが小規模で収まる事をかげながら見守るか、間に入って仲裁役を買って出るしかない。