親殺し

子供にとって、親は超えなければならない対象である。奈良で起きた事件といい最近、子供の親殺しが良く報道される。親が子供を殺す事件ばかりではなく、親子共々お互いに自分たちの利益を守る、または得ようと言うことの結果であろう。

 親と子、生まれながらにして運命共同体である。親は子供を自分の保護物として扱い、子供は親を加護してくれるものとして暮らすはずである。しかし、やはり何処か奥底には、個としての自我が存在する。
 
 全ての人間が自己中心的に生きているわけではない。他者に愛情を向けて生きている人もいる。しかし、その自己犠牲の精神が、美談として伝わりにくい世の中になってきたことは間違いない。
 更に今の風潮は、却ってその行為が欺瞞に満ちたものとして感じられ「うざい」「格好つけ」と一言で切り捨てられてしまう。そのような風潮の中、自分が受け入れられなければ、子供にとって親はうぜえ存在であり。親にとって子供は面倒くさい存在になってしまう。
 そのように思った瞬間、愛情のスイッチは即座に「オン」から「オフ」に切り替えられてしまう。だから、犯罪を犯した後の少年の答えも、「家族に申し訳ないと思う。」と言わせてしまうのである。即ち、ここでも感情のスイッチが切り替わり、自分の犯した事件の重大性を神のように見下ろす視点から、今の己の感情を答えて見せるのである。

 大きな戦争の無い平和な世の中、しかし、日常では人間そのものの精神が壊れてきている。責任を取らない大人、仮面を被った子供、そこにいるのは、人間と言う着ぐるみを来た得体の知れない生き物が存在するのである。このまま進むのか、それともどこかでゆり戻されるのか分からない。
 ましてや教育基本法を変えれば直ぐにでも子供が清く正しく生きると考える大人がいるが、まず間違いを犯しても責任を取らない大人から教育しなおす必要がある。

 更に拙い事に、世論はこの状況に対して何かしなければならないなどと訴える意見が増えるだろう。悪くすれば今以上に子供に対して良い子供になりなさいと、枠をはめようとする。そんな環境で大きくなった子供が親となり、その子供にどのように接すると思うか考えて欲しい。また歪んだ考えの人間が増えるだけである。