宗教の存在意義

信仰と宗教という硬い題名で書き始めると身構えてしまい、どのような文章で書こうか迷ってしまう。

 それでも、このブログの一つの意見として目を通して頂ければ幸いです。

 まずこれを書き進めるに当たって。

 自分は宗教の全てを否定するものでは有りません。宗教にも有用性があり、生きていく上で大切な場合があります。その上で論を進める事にします。

 宗教とは、そもそも生活の知恵が、衣をまとい一つの教義になったと考えます。或いは、教祖と呼ばれる一人の人気者を崇拝する事で、後から教義が生まれてきた場合もあると考えます。

 教義そのものが生活の知恵ですから、当然納得する部分もあります。また、困難な場面に遭遇した場合に、立ち向かう或いは逃避するための教えが書かれているわけですから、そういう状況に陥った場合心の支えとなるのです。

 中には、どうしてそんな事をするのというような教義もあります。きっと教祖様が、不幸な事がおきた時やその前にとった行動が不幸を呼ぶジンクスとなりそれが戒律になったのかもしれません。

 あと、効能の一つに、信仰により死に対する不安が取り除かれる場合も有るというところです。ただし、これも良し悪しで、周りの家族がそれによって不幸になる場合もあります。
 ただし、これも周りから見れば不幸に見えるのであって、本人達はその境遇も納得して受け入れている場合もあるでしょう。

 信仰によるマイナス点も多々存在します。大きなものに、宗教間の争いによる戦争などが上げられます。お互い離れて共存していれば争いも起こらないはずであるが、隣同士でお互い相手にやっている行為が鬱陶しいものであればあるほどいがみ合いになりケンカになりそして最終的には戦争という解決方法に向かうのです。更にそれによるマイナスは、宗教のためなら自分の命も捧げるという行為が教義として形作られてしまうという事になるのです。
 
 そのように、宗教には、良い点と悪い点が存在するというのを認識する必要があります。その上で、信仰することが本当の安らぎを自分はもとより家族なり親族を幸せにすると思われます。
 
 また、必ず宗教を疑う気持ちが必要です。目の前で超常現象を見せられても直ぐ信じてはいけません。TV等でマジシャンがありえない事を目の前で見せていますが、必ずそれには種があります。見ているほうは、本当に奇跡が起こったと信じてしまうかもしれませんが、この世に本当の奇跡を起こせる人は存在しないと思っていた方が良いでしょう。本当に奇跡を起こしたとしても、それは奇跡であり、信仰の対象とすべき事では有りません。たとえそれが不治の病を奇跡で治療したとしても治るのは奇跡ではなく自分の力です。また、治る病気は不治の病でもありません。それは、病院で治療しても同じ事が言えます。病院は、病気を治す手助けをしている或いは進行を遅らせる或いは痛みを和らげる。それにより病気が完治するかしないかは自分の力だけです。
 
 それは宗教にもいえる事です。宗教は、あなたに信じること或いは神に依存する事で心の安らぎを与えてくれるのです。直接、神が降りてきてあなたを救う事はありません。心の安らぎを与えてくれるのは、宗教ではなく別の方法が有る場合もあります。

 信じるものは救われると良く言われます。確かに、信ずる事が心の安寧をもたらすならその人にとって素晴らしい事であります。しかし、ひとたび、信仰が人生の全てであると変わった時点で、周りに与える影響はかなりなものになってきます。なるべくならひっそりと信仰していて欲しいものです。

 日本は、現在のところ一神教の国ではありません。昔から八百万の神といわれるほど沢山の神様が居る国です。その無秩序な状態がこのまま続く事が、日本を戦争という争いごとに立ち入らせないための方策だと思っています。