壁新聞

このBLOGのタイトルを何故「壁新聞」にしたかその話をしたい。

 それは、このBLOGをはじめるときに小学校の壁新聞を思い出したからである。

 その頃は、純粋だったのだろうか?あるいは、良い点数をもらおうとして一生懸命だったのだろうか?今となってはどちらだったか、またはそれ以外だったのかわからないが自分の意見を他人に見せる行為を行った原点で有ったからだ。

 その、新聞は、確か6,7人の班で作ったものだと思うが、しっかりとは覚えていない。もしかしたら研究発表と混同しているかもしれない。しかし、壁新聞を教室の後ろの壁に張り出した記憶がある。しかし、その記憶も今の自分が作り出した幻だろうか。
 本当に人間の脳の記憶というのは、忘れるためにできている。

 最近のニュースの中に、中国の農民が壁に、地元の不正を糾弾した文章を紙に書き壁に張り出す映像が流れていた。
 その個々の意見を書いた紙1枚を壁に貼ることで意思表明を行っている情景である。きっとその意見を書いた農民は必死の思いで書いたのであろう。

 何か壁新聞の原点を見た思いがした。
 
 この世界の中に、自分の意思表示をした紙が1枚しか存在しないのである。そして見る人は道行く人の何割であろうか。そのニュースの解説では、中央政府に訴えるために行っているということなので、中央政府の役人が見回っているのであろうか、その点は不明である。

 小学校時代の壁新聞も手作りであった。一字一字マジックで書いた記憶がある。そしてその新聞を読むのは、そのクラスの同級生であっただろうし、担任の先生だっただろう。その状況が中国のそのニュースと同だと思った。
 
 そしてこの壁新聞がある。 気の向いたときに自分の思いを書くわけである。そしてインターネットという世界を通じて毎日不特定の人に見られているわけである。
 そう、これは小学生の自分が作った壁新聞と同じなのである。

 今日は、1日で3本も書いてしまった。何かそれも、小学生の自分が、余白を埋めることに苦労した時を思い出してしまった。すこし苦笑いをしたい気分である。
 その苦労した新聞も当然のごとく自分の手元に存在しない。残念。

 自分として生まれた人生は一度しか巡ってこない。自分自身は、輪廻転生を信じていないので、この地球上に人間として存在するのは1回限りである。そして生存しているこの一瞬は、二度と経験できない。その、生きた証が、インターネットという環境の中で記録として残ることは大変素晴らしい事である。(周りにとって迷惑かもしれない。)

 この世の片隅で本当に得にもならない内容が書かれたBLOGであるが、自分にとって、表現し記録できる場があることが素晴らしいことである。
(それに書かれた記事や内容が紙であった場合、捨てられゴミとなっていただろうと思う。)

 でも何かを書いて表現するということは、自分の意見を整理することになるし改めて自分という存在を認識できる(自己分析)。この記事を書いているのも自分という人間であるし(ある意味架空の存在)、そして現実にキーボードを叩く自分も存在する。
 そしてこのインターネットの世界に存在する文章全てが、1,0の記号に置き換えられて存在しているのです。本当にすごいと思う。皆さんもそう思いませんか?
 
 最後にこの場を提供してくれる「NTT DATA CORPORATION」の皆さんに本当に感謝したいと思います。