幸せの量

人生、人それぞれだけれど、幸、不幸の量は一定だろうかという質問を受けた。

 とっさに出た言葉は、幸、不幸の量は皆同じではないだった。

 しかし、その理由に関しては、説明する時間が無かった。そこで、しばらくの間、人間における人生の幸、不幸の量は、平等なのかそれとも不平等なのか考えることとした。

 そもそも、人生において、幸せ、不幸せとはどのような定義でなされるか考える必要がある。それは、同じ尺度で物事を見なければその量を比較できないからである。

 ここまで小難しく書いてしまったが、自分は、全てを見通せる神ではない。あくまで他人の幸、不幸は、外から見た相対的な感覚でしか評価できないからである。
 もし、自分の中だけで、今幸せ、不幸せを記録していき、最終的に死ぬまでの度数をグラフにあらわし自分の人生の中で幸せが何ポイント上まっていたかが最終的な評価になるのだと思う。

 すると、評価尺度が違えば、幸せと感じるレベルが人それぞれ違うのだと言う事に気づく。例えば、道端に落ちている1円を拾い、幸せと思う人と、幸せと思わない人がいるようにである。

 全ての出来事に対して、幸せと多く感じられる人がいるとするなら、その人は、人生において幸せ度は高いだろうし、全ての物事に対していつも不幸せと感じる人は、人生の不幸せ度は高いだろう。

 すると、そこでまた別の考えが出てくる。いつも幸せならその一つ一つの幸せ大きさは、あまりレベルが高くなくなるのではないかと言うことである。不幸せが続けば少ない幸せも最大限の幸せと感じることが出来るのではないだろうか。

 そうすると、幸せのポイントは、もしかしたら、プラスマイナスゼロになる可能性が出てくるのである。

 結論としては、自分の幸せを人生においてプラスにしたければ、日常の出来事を幸せに感じる必要があるだろう。また、不幸な出来事もそれなりに受け入れていく必要があるのだから、せめて小さなことを幸せと感じていける「幸せの貯金」をしていく必要がある。

 結局、幸、不幸は、自分の中にあるのだな。