死生観

最近、仕事上のストレスからか、少し気分が落ち込んだ状態になりつつある。
 これを、うつ傾向と言うのだろう。

 最近夜ふと目を覚ました時に急にある思考が脳内を駆け巡るのである。
それがどういうものかというと、人間を構成する一つ一つの細胞或いは組織が、緩やかに老いているという自覚である。

 人並みに運動もし、仕事も若い頃と変わりなくこなしているはずの自分であるが、見た目は、あたかも時がとまっているような状態でありながら、ほんの少しずつ死というゴールに近づいているのだと言う実感である。

 そのまだ見えぬ或いはもしかしたら直ぐそこに来ているかもしれないゴールに自分が進んでいると想像し、その先の暗い闇に目を凝らして見る状態なのである。
 
 死後の世界や生まれ変わりなどあるはずも無いのに、もしあるとしたら、更にあれば良いに変わり、そして何時しかあるはずものだと信ずる自分がそこにいるとしたらどん なにか幸せな気分になれるだろうかと思ったりもする。

 死生観は、死を通して生きるを観ることである。
 人間は、死というゴールが必ずあり、そこに到達するのは、この世に生を受けたもの全てに平等にある。それは、宿命と言っても良い。
 そして、必ず到達することを前提に、そこまでの時間をどのようにして生きるかを考えることが死生観なのである。

 それは決して、生きていることが前提で人生を考える事ではない。

 人は、何かしらゴールを目指して生きている。どんなに怠惰な生活を送ろうとも自分でも気づかないうちにゴールを作っている。それがどんなに些細なゴールだとしても、その一つ一つの積み重ねが大きなゴールになっているのである。
 
 しかし、人はその小さなゴールばかりに目がいき、大きなゴールを見失いがちである。だから人生に迷うのである。

 今、自分はその時に存在している。今まで歩んできた道のりの起伏を振り返りながら前方にあるだろう山や谷を想像しているのだ。
 先に進む場所にゴールがあるのは知っている。

 さてどう生きてやろう。