美しい日本

今日の話題に上がっていた「美しい日本」を作るためにかかった費用が4900万円らしい。それが多いか少ないか人によって感じ方が違うだろう。
 記事の見出しが、2回の会議でそれだけの費用が掛かったような印象を与えるが、実はその2回の会議にあわせ、職員を雇い、会場を設営したりという費用も含めてということなので、それが妥当なのだろうという気が自分はする。

 このような会議が毎日開かれ、そしてそれを開くために相当の金額が使われていることを理解するきっかけにはなっただろう。
 そうやって国家予算は使われているのだよと訳知り顔で子供に講釈を垂れるのもよしである。

 そもそもこのフレーズの推進役であった安倍さんはどうしているのだろうと郷愁にも似た感情がわき上がる。もう既に退院されたのであろうか?短い間だったと言え日本のために働いたのだから少しは感謝の気持ちは湧く。
 もし元気が回復され、働く意欲が出たなら自分の家庭内だけでも美しい日本を作ってくださればと思う。
 
 でも、この「美しい日本」という抽象的な言葉は、いったい何を美しくすれば良いのか、人によって考え方が違うようなものをどのように進めるつもりだったのだろう。

 例えば、美しい日本を作るために美しい言葉使いを進めるとした場合、そもそも美しい言葉とは何ぞやという定義から始まるのだろう。ある人は標準語を美しい言葉と定めるだろうし、ある人は地元の方言が美しい言葉と感じたりもするだろう。
 多数決で、美しい言葉を標準語とすると決めたとしてもそれが守られるだろうか?
 これは例えなので実際これが決められたわけではない。

 というような美しい国づくりは、価値観の強制につながりかねない問題である。

 今回のこの方針は、安倍さんとともに消え去るのだが、しかし、価値観の強制と言うのは今後もどこかで起こってくるだろう。それが生活の規範であったり思想信条までも強制されるかもしれない。
 上手くいけば道徳的な素晴らしい社会が作られるが、一歩間違えば、隣組のようなお互いを監視しあうような、プライバシーが守られにくい社会が出来上がる恐れがある。
 ただ今回のように、まだ民主主義が機能していれば、変わる可能性があるが、それももし小泉さんの時のように、絶対的意見に逆らうものは的だというような状況になる恐れもある。
 どちらにしろ、自由を守ると言うことはそれなりに時間とコストが掛かると言うことなのだろう。