広島 原爆の日

今日は、原爆の日である。もう既に62年の月日が流れた。それが長いのか短いのかそれぞれの立場により変わるのだろう。

 さすがにこれだけの年月が経つと、既に生まれる前の出来事だと言う人が大半である。だから既に過去のことだから忘れる、忘れようと言うことではない。時が経つことによってお互い冷静に物事を考えることが可能になる。

 私は、直接の当事者でもなく、更に言えばその出来事が起きた時はまだ生まれていないし、生まれてからも広島、長崎に行ったことも無い人間であることをお断りしておく。そういった人間がここでしたり顔で物を言うのは恥ずかしいことであるが、取りあえず自分の日記であるので書くことにする。
 
 そもそも原爆投下の理由は、アメリカが戦争を早く終わらせるために、新兵器の原子爆弾を投下したと言うことである。これに関しては、色々複雑な理由が報じられているが、大筋の理由はこういうことになるだろう。

 その後、このことを背景に核廃絶運動が起こった。では、何故原子爆弾の使用がだめなのか少し考えてみたい。

 戦争で使われる爆弾などの兵器の目的は、建築物を破壊すると同時に、敵の兵士を殺戮することにある。

 規模は違えど、上記のことは、原子爆弾、普通の爆弾も目的は同じである。ここで、少し違うのは、普通の爆弾が、ある程度攻撃範囲を絞って使用できることである。それにより非戦闘員の被害を少なくできる。
 しかし、イラク戦争のように、非戦闘員と戦闘員が同じ場所で居住している場合は、その区別は難しく非戦闘員の被害が少なからずあると報じられている。

 しかし、原子爆弾による攻撃は、普通の爆弾と違い、無作為に爆心地付近の人建物を完全に消失させ更に何キロに及ぶ地域にいる戦闘員、非戦闘員を含めて被害を及ぼす。
 
 また、これだけ大規模な被害が予想される作戦の内容を事前にアメリカ側が通知しなかった。もし、事前に知らされ、投下地点の住民が避難すればその威力を示すだけで大勢の人が犠牲にならずにすんだだろう。
 
 アメリカのみがあの威力を事前に知っていた。日本も開発していたという話もあるがそれが本当に実現可能だったか知らない。また、それが可能だった場合、報復の攻撃を日本がしたかどうかが問題となるが、それはわからないし、今後もわかることは無い。

 世界で始めて戦争で使用された原子爆弾、それが広島であった。多くの犠牲の元それがとんでもない威力を持つものだと世界に知らしめた。
 しかし、その結果、今では多くの国が原子爆弾水素爆弾中性子爆弾などを持ち始めた。そしてその威力が強力なため、その後使われることは無い。

 すこし論理が飛んでいるが、人を殺すことに原爆も普通の爆弾も変わりは無い。原爆だけが悪くて、普通の爆弾は有益だと言うことではない。人を殺すことが悪だと言う視点を持たないといけないだろう。そこで、広島長崎が、核廃絶の運動だけでなく戦争そのもの、兵器による殺人をどの程度否定していけるかによって運動がこの先、時代と共に風化してしまうかを決めるのだと思う。

 原爆を使用することは悪である、しかし小さな爆弾を使用するのは必要悪で許されると言うことではなく、人が人を殺すことが悪であると言う原点に帰らないと、第2、第3の広島、長崎が生まれる可能性を否定できないだろう。