無責任時代

無責任男といえば植木等。これを知っているのは年代が古いかマニアぐらいだろう。
 その映画が1960年代であるから、それを知っている世代は、40代後半以上である。

 そうすると何やら、最近の無責任事件の主役とつながってくる。真面目に馬鹿正直に働く社員のそばでC調(これも古い)に仕事をこなす主役を手本にしたとしか思えない。それは、丁度60年安保の時代でもあった。
 また当時の学生の合言葉は、反体制であった。権力というものに反対する姿が格好がよいと思われ、更に純粋に生きる姿が求められたのとは裏腹に自分だけ上手くやれば良い上手く世渡りをしようという相反するものがまるでごった煮のように広がる世界であった。

 それは今でも同じなのかもしれないが、世の中ので上手く生きることが求められた結果が、表と裏を使い分ける方法をいつの間にか学んでいくものかもしれない。それはある種の自分の求める真の生方を否定する行為でもあるのだ。
 そして年老いて行くほどその思考に破綻をきたすのである。

 TVを見ていていつも思うのだが、ある行為を批判するコメンテーターは、自分たちの持つ裏の顔を否定するために言葉を吐き出すのだと。放送終了した後、正義面した人間が仮面をとる姿を想像する。そうなのだあれは茶番なのだ。攻撃するほうと攻撃されるほうお互いに役回りを決めた台本どおりに進行する。それが現実と虚構の世界と混ざり合うため世間の視聴者をあたかもそれが実在の世界だと誤認させているのである。

 さて、裁くほう裁かれるほうと色々な人間が舞台に登場しているが、さてどこまでが自分の正義でどこまでが嘘なのか?明日になればその役回りも変わってくるのだろう。

 そして無責任を徹底的に批判する責任時代が始まるのである。