大人の基準

今日は快晴。そのため朝の冷え込みは厳しかった。そのため雪解け水が氷になってスケートリンクのようになってしまっている。


 小さい頃、大人は全て正しい判断をし、偉くなればなるほどその確率は極めて高いと信じていた。
 まあこれも、思っていただけで、実際回りには変な大人は大勢居た。しかし、子供心に大人は間違ったことをしないと植えつけられていた。それが義務教育の中の教師だったかもしれない。

 自分の中で先生は、間違ったことをしない神のような存在でもあった。と思っていた。だから服従していたのかもしれない。
 
 それが崩れだしたのは、神であった教師の嫌な面を見てしまった頃からである。その時は、教師の中にもそういう人もいるものだという気持ちだった。しかし、徐々に教師は神様でもなく只の大人の一人に過ぎないという認識になったのは高校生のときである。

 自分は、それに気付くのが遅すぎたのかもしれない、もう既に中学から、あるいは小学生の頃から気づいていた同級生は居た。それが教師に対する反抗だったのだろう。
彼、彼女にとって先生は、既に尊敬すべき対象ではなくなっていたはずである。

 大人になってみて、尊敬される立場になることがどれだけ厳しいものか良く理解できる。それをしていた先生たちも偉かったと思う。ただし、その人格者だと思われる教師は実際のところ少ないというだけの話である。

 そうして子供たちは中高生になってくると諦めと反抗に及ぶのである。信じていたものに裏切られたことに反発するのである。

 世間一般の大人の基準は、道徳的であれということである。子供の手本になるということである。それは、本当に上辺の基準であって理想である。今の世の中、だれがその基準に当てはまるのかも不明である。
 大人の基準に合わない大人が大勢事件として報じられている。

 現実は、全ての人間が子供である。大人と呼べる人はいるのかいないのかわからないというのが本当のことだろう。