雨降りに思った事

朝の3時か4時頃から雨は降り出した。丁度窓の外を見たときは、シャワーのような細かい雨が降り注いでいた。その雨も今は止んでいる。空は、全面雲で覆われ何時また雨が落ちてくるか予想もできない状態である。さて何から書き出そうか迷ってしまう。昨日の突然の辞任会見について書きわすれた事を一つ。きっとあの人は、成るべきではなかった人だったということである。「国民目線」の政治を標榜していたが、あの人がモデルとしていた国民のレベルというのは、家には家政婦さんがいて、運転手付きの車が迎えに来るような家で暮らしている人か、一流企業に勤めるサラリーマンの家が国民として呼べるレベルだったのだろう。もしかしたら、実際の国民の生活レベルを実際に目にしたことが無かったんではないだろうかと思う。例えば、深夜まで働き、夫婦は共働き、子供はかぎっ子などという暮らしは想像だにできないことだったのではないだろうか? 更に言えば、今の国会議員の何分の1の人間は、生まれながらに特権階級の生活しか知らないで年老いてきた人たちなのだろう。いつの間にか、国民の生活とかけ離れたところで生活してきた人たちが、日本の針路を決めようとしているのだと思う。小泉劇場で名を馳せた小泉さんも、何か庶民的な雰囲気を持ってはいたが、それはあくまでも雰囲気だけで実体は只の変人で、自分たちの暮らしの安定を求めるために政策を実行に移したに過ぎなかった。金を持っている人は、より金持ちになるための政策である。それにより日本に住む1割程度の人間が、日本の半分以上の富を独占することになり、残りの9割の人間は、そのおこぼれを貰って生活することになったのである。更にそのおこぼれが少ないと不満を漏らすものに対して宗教という目くらましで更にお金を吸い上げ、信心という言葉で催眠を掛けているような世の中を作ってしまったのだ。バブル景気の頃から今まで20年程度暮らしてきた人間は、真面目に働き、真面目に勉強することがまるで悪いことのように思わされてきた。その結果、楽してお金を手に入れようとする犯罪ばかり増えてきたともいえる。それに代表される犯罪が「オレオレ詐欺」である。その解決も今頃になって、ATMの周囲で携帯電話をつなげれないようにするとか、顔を隠してATMを操作できないようにするという対策が取られ始めるという体たらくである。それは、まさしく自己責任という名を借りた国家の怠慢としか言いようが無い。そして、自分で責任も取れもしないくせに自己責任だから何をやっても許されるという国をせっせと作り上げてきたのが今の現状なのだろう。そういった世の中に誰が生きる喜びを見出せるのだろうか?今生きている人たちに問いたい。自分だけが幸せになることができるならどれだけ楽だろう。しかし、そう都合よく人生は廻らない。その証拠に、みんなから担がれ今まで何不自由なく暮らし、学級委員の言うことは全て従うものだと思い込まされ、就職しては、周りが総理大臣の息子だということで遠慮し気を使ってきたことが当たり前だと思って生活し、自分が声をかければ水戸黄門の印籠のようにひれ伏すと思っていたのが、国の学級委員長になった途端それ程回りがひれ伏さず、自分の言うことにも従わない、それが面白くないから辞めたとなったわけである。ある意味、人生の挫折を味わったといってよい。或いは今までもそういった困難なことがあったのだろうが、それは周りがよきに計らってくれたおかげで左程痛手を蒙ることなく暮らしていたのだろう。しかし、庶民の生活をしていれば、そんなことは日常茶飯事であり、常に笑い飛ばすしかないことを国民目線では感じられなかったということなのだろう。明日の生活を心配しなければならない層をどうにかしなければ日本は危うい。更に働くことの喜びを如何に子供たちに伝えていくかも大問題である。