生きること

今日は、空を雲が覆っている。白やねずみ色の雲が重なり合いながら空に浮かんでいる。今週末は気温が下がりところによっては雪が降るかもしれないということである。


 最近になり硫化水素による自殺が増えている。以前は練炭による一酸化中毒による中毒死であったがそれが硫化水素に変わった。

 自分も時々、死にたいと思うことがある。それは本当に死ぬということではなく、自分という存在をこの世から消すことで全ての雑音を消去したいという思いからである。

 その思いが強くなることで本当に自殺をしてしまう人が存在するのではないかと思う。なぜなら失恋、仕事、借金、いじめ、病気などの思いつく自殺の理由を上げてみてもそれが本当に死と結びつくものは少ないのではないだろうかと思う。

 本当の苦しみは、生きていることが苦しみではなくその思い悩むことが苦しみであることが多いだろう。それは自分が何故この世に存在するかという問いかけでもある。

 先に上げた理由も、借金であれば自己破産という方法が残っているし、失恋であれば他に恋愛対象を求めることも可能である。その原因を取り除く方法は、人によって困難なことではあるが決して無いわけではない。
 病気を苦にして死ぬとしても、その病気がやがて死を本人にもたらすものであれば、自然と本人を死に導いてくれるはずである。その病気の苦しみが例えば地獄の業火のように体に絶えず痛みをもたらすものであっても、その痛みを和らげる方法はある。

 では何故そこで生きることをあきらめる必要があるのだろうか?方や偶然死をもたらされる人がいる一方で、自ら生をあきらめてしまう人間もいる。それは、この世に生を与えられた人間にとって平等ではないと言わざる得ない。

 年寄りの戯言であり、本当に自分がこの世に生きている意味というのは、最後までわからない。もしかしたらイエスのように死ぬことで信仰を広めるという深い意味を持って生れた人間がいるかもしれない。あるいは反対に、多くの人間に不幸をもたらすような生き方をする人間が存在するのも事実である。

 その人が生きるあるいは生きている理由は存在しないのかもしれない。そして、その理由を見つけるために生きているのかもしれない。