狂気

朝の日差しの熱量は高いようだ。今までなら冷たい風が日差しの熱気を冷ます役目をしているため暖かさを感じなかったが、久しぶりに晴れた今日は、じりじりした太陽の熱さを感じさせる。
 今までの冷気を考え厚着して外に出てしまったが、今日はもしかしたら日中は半袖が丁度良い感じかもしれない。

 
 最近毎日必ずと言ってよいほど、精神を病んだ者による犯罪が起こっている。これが昔と比べて多いのか少ないのかデータを持っていないので良くわからない。

 自分が知っている昔と言っても、明治や大正の時代ではなく、戦後の高度成長期に入った頃からのことである。その頃には既に新聞、TVは当たり前の世界になっていたので、自分の中に入ってくる情報量に左程の変化はないだろう。
 それで考えると、今の方が普通より異常に傾いた少し境界をさまよう人間の犯罪が増えたのではなかろうか。

 こう書いてしまうと、あたかも現代人は精神的に病んでいるという結論ありきの文章になってしまうだろうと思うので、少しひねりを加えた思考が必要になってくる。

 ひねった思考として、現代人は徐々に精神的に異常と正常の境界をさまよう人が主流になってきているのである。と書き始めれば少し別の見方で書いてみる。

 人間の脳みその体積は有限である。人それぞれの大きさに個人差があっても、知識量の増大と共に脳の容積は増加しない。それは頭蓋骨という器に閉じ込められている物理的限界がそこに存在するからである。
 
 では、現代の知識量は、昔の人間より多いのか少ないのかという点にある。知識量が限界を超えた量でなければ脳の受け入れ範囲を超えなければ充分に空きスペースが存在するからである。と言う理論で考えると、原始人の頃の人間のは、生活に必要な知識を収納するので事足りたわけで、その知識は身近なものに限定されていたはずである。
 翻って現代の日本人は、小さい頃から受験と言う名の知識の詰め込みを行っている。それは必ずしも生きていくための知識でもなく、それが生活を左右するものでもない。そう言った知識を乱雑に詰め込まれていく。小さい頃に、自分に必要な知識かそうでないかの選択をする能力が欠けているためである。

 するとどうなるか、脳内で知識は、色々なところに存在し、色々な場所でうごめいている状況になる。その知識の整理整頓が睡眠中に行われる作業だといわれているが、現代の子供たちの睡眠時間は減少傾向にある。すると、どうなるかと仮定の話で言うと、脳の中で知識は行き場を求めさまよいはじめることになる。
 
 まあこれは殆どトンデモな考えなので一笑に付されても仕方が無い。それでも続けると、現代人の知識の詰め込み合戦は、いびつな現代人を生産してきたと言うことになる。通常の状態であれば正常な日常生活を送っているように見える人間も、何かの拍子に箍が外れ暴走し始めるとしたら。その引き金が脳内に乱雑にされた知識の断片がそうさせるとしたらと考えると。自分の隣で微笑んでいる人や、満員電車の中につり革をつかまっている普通のサラリーマンが豹変するということになる。

 それが今日常に起こっている、起こるべくして起きた犯罪ではなく、何かの拍子、それがストレスであり、飲酒であったりするのだろうが、突発的に起きることが恐ろしいと言うことなのである。これを書いている自分さえも正常と狂気の間に居るのだとさえ感じてしまうことになる。

 なにやらお馬鹿なことを書いてしまったように思えるが、本当にスリラー映画のような状況が日常的に発生していると言うことは事実として存在していると思う。