さて

今日の空は、久しぶりの青空である。昨日は日中久しぶりに外回りに出ていた。
それは昼ごろであった、北の空に稲妻が一筋走り、雷鳴がとどろいた。するとものすごい勢いで大きな雨粒が地面を川に変える。
 日頃部屋の中に閉じこもっているためこんな雨にあうのは何十年ぶりだろう。

 
 秋葉原事件、犯人の行為は、決して許されるものではない。今頃になって反省の言葉を述べているようだが、奪われた命を思えば何の贖罪にもならない。

 しかし、この事件が我々に考えさせることがあるとしたら、今の社会が国民にとって本当に望んでいた社会なのかと言うことである。
 
 バブルの後遺症で弱った日本に現れた小泉さんは、日本を変えてくれるように感じ支持もした。そして国民に痛みを与えるが我慢してくれと言う言葉に従ったわけである。

 そして郵政改革に賛成をし、格差社会という現実も受け入れ、そしてその政策に乗ってお金をもうけた老若男女がTVに移る姿も受け入れてきたわけである。
 いつか自分のあのように、或いはあそこまでは行かないがそれ相応のところまで上り詰めることを夢見ていたわけである。
 しかし、ここにきてあの場所に行くのはほんの一握りで、更にまじめにコツコツとやるより、人をだまして生きていくことがあそこにたどり着く早道だったことに気付き始めたわけである。
 
 人をだますことが許容され、まじめに生きることがややもすれば否定される世の中になってしまった。そして公務員までも社会の公僕であることを忘れ、まるで税金を掠め取ることが役得であるかのように行動し始めてしまったわけである。

 さて、景気と引き換えに我々国民が得た教訓は、KYと言う言葉と、如何に上前をはねていきるかという行為しかなくなってしまったわけである。

 既に半数以上の国民は、今の政治に失望している。与党も野党もである。公務員は決して国民のために仕事をしているのではなく税金を如何に使うかと言うことだけを目的に仕事をしていることに気付き、自分たちが何のために生きているのか目的さえも失ってしまった。

 その中に起きた事件である。犯人の行為は許されなくとも、その行為を生み出す環境をせっせと作り出してきた。一度落ちこぼれればその中から這い上がるのはほんの数%の現実で、果たしてその残りの大多数が世の中に不満を持たないで生きていられるだろうか?
 あるものは自殺し、あるものは自分の死と共に関係の無い人を道連れにしようとする。そういう世の中の仕組みを作り出してしまった。

 この先、そういった社会に不満を持つ人たちの不満を解消する手立てを考えなければ、何も解決しない。更にその不満を挫折を経験していないエリートたちに考えろと言ってもその政策は絵に描いた餅にしかならないだろう。

 この事件を教訓に、普通の人がこの世の中の仕組みを変える努力をしていかなければ、普通の人が平穏にそして幸せに暮らせる世の中は訪れないだろう。