スポーツ放送

空には白い雲が浮かんでいる。その白さが、外気の寒さと相まって寒さを助長する。改めて冬が近づいてきたことを実感させる。  日本シリーズは、西武が優勝した。昨日は、パソコンをしながらTVをちら見していた。さすがにスポーツ系はリアルタイムで見なければその後のダイジェスト放送ではわからない何かが存在する。 録画をすれば良いと思うだろうが、結果がわかったものを最初から見ることは、本当に好きでなければ苦痛である。この後何が起こるかわからないハラハラ感がスポーツ番組の醍醐味である。  ゴルフ中継などは、日本の場合既に試合が終了した後を編集して放送している。それがアメリカのゴルフ番組と違うところで、あのダイジェスト放送は頂けない。放送時間とコマーシャルの兼ね合いがあるのだろうが、生で無いという先入観が興奮を半減させる。 これ程情報が発達した世の中で、スポーツの結果が即座に上がらないというのは、海外で行われているか、国内の場合は、余程マイナーなスポーツの場合で、何かしらの情報がネット上に流れてくる。 その情報の全てを遮断するような力は今のTV局には無い。 だからあの、延々と走る姿しか映さないマラソン中継が視聴率を稼ぐのである。あの中継が録画だったら誰が見るだろうか。結末がわかっているのに延々とランナーの表情を見る必要性が無い。何故あれを2時間も見続けるかといえば、あの走っている間にドラマがあり、更に見ているほうに一体感を覚えさせるからである。 スポーツは、一瞬で消え去るドラマでもある。 それに比べ、TVのドラマやお笑いは、録画してもそれ程痛まない情報である。リアルタイムで見る必要が無い番組である。更に続き物などは、全て録画してから続けてみたい代物である。 続きを見させようと言う仕組みが上手く嵌ればあれほど面白いものは無い。昔、録画用の機材がまだ家庭に無かった頃、あの一週間がどれ程待ち遠しかっただろう。必ずその場にいなければ見ることが出来なかった。 それは、スポーツ中継等しいものだった。それが今では、簡単に録画できる事で、作り手の次の週も見せてやろうという意気込みが感じられなくなった。その、どうせ録画されて見られているのだから、次に期待を持たせる事を敢えてしなくても良いだろうという安易なところが垣間見られる。  あの、フジTVとライブドアのやり取りの中で、浮き彫りになったTV局の存在価値、あのことが無くても早かれ遅かれこの状況は確実に来ていたはずである。結果的には、フジの決断は正しかったが、それが今の状況を根本から変える事は出来なかった。  今後、デジタル放送が普及し、ネットとの融合が更に進んでいくだろう。その融合方法は、決してデータ放送をおまけにつけるといったような安易なつくりでは決してないだろう。 その先にある放送形態は、youtubeのような形に変わっていくはずである。更に家庭では、録画機器の大容量化が進み、全ての放送を網羅的にストックし、その中から好きな番組を見るようになるのだろう。