容疑者報道

空は、快晴である。僅かに山並みに沿って雲が掛かっている程度である。外はそれでも風は冷たい。

今回の注目は、何と言ってもSMAPの草彅容疑者の事件だろう。

以前おなじSMAPのメンバーで稲垣さんが傷害で逮捕された時、TV局は一斉に「稲垣容疑者」とは表示せず「稲垣メンバー」と呼称した。

その時の事件と今回の事件の軽重を比べた時どっちもどっちのような気がする。そこで何故当時のように「草彅メンバー」と呼ばないのか凄く違和感を感じるわけで、それは多くの人が感じていることだろうと思う。

当然うがった見方をすれば、TV局のジャニーズ事務所への配慮が必要ないほどの力関係になってきているのだろうという事である。本当にそうかは、確実な情報源を持たない自分としては想像するしかないわけである。

ただし、その力関係だけがあからさまに見せ付けられると、これは如何なものかと思わざる終えないだろう。或いはマスコミは、そういうものだと思うしかないと諦めに似た気持ちになってしまうものである。

TV局をはじめ新聞を含むマスコミは、営利企業である。商売抜きでは経営する事が出来ない。そのためには、報道を自粛する事は当然のことと思われる。しかし、仮にも「正義」を振りかざし一般人には情け容赦ない行動にでているマスコミが、お得意様にはその旗を降ろすのでは、画面や新聞紙を見ているほうにしては面白くない出来事であり、それがマスコミの信頼を落とす事になっては、先行きやはり見ない買われないという悪循環に陥り、やはり経営として上手く行かなくなるだろう。回りまわって「天に唾を吐く」と同じことになっていくわけである。

成熟した文化は何時か転換期を迎える。それを上手く乗り切れば次の新しい文化を生み出すことが出来る。しかし失敗すれば当然消え去るのみである。

マスコミは正にその時期を迎えつつあるのだと思う。同時に日本社会も同様な転換期を迎えているのだろう。