ゆとり

 朝日が眩しい。昨日降った雨が路面に凍りつき黒光りしている。11月ももう終わりに近づき、寒さも一段と増している。

 何やら景気が悪くなり、皆が節約しようとすればするほど心にゆとりをなくし、徐々に殺伐とした世の中に成ってきたように思える。少しの我慢が出来ずに爆発したり、先を急ぐ余り周りが見えないというようなことである。

 自分も自戒しなければ成らないが、相手を攻めるより自分を戒める。慌てず騒がず落ち着いて行動する。こんな時はそれが大事である。そうできないのも現実なのだが。

 ゆとりと言えば、「ゆとり教育」というものがあった。文部科学省が積極的に進めていた。その子供たちが今や社会人や大学生である。今こそ、そのゆとり教育の成果がどのように子供たちに繁栄されているのか検証すべきことだろう。

 その見直しで、今の小中学生はもっと勉強しろと尻を叩かれている状況で、ゆとり教育の成果がどのように評価されるかで、子供の教育を考える必要があるだろう。

 しかし、ものを知る知らないは教育だけではないと思う。学校というのは知識を詰め込むところではなく、学ぶ方法を知るところだからだと思う。自分が必要とする知識をどのように得る事が出来るかが重要で、暗記する能力を鍛えるところではない。そもそもそれがゆとり教育だったはずである。

 その教育を受けた子供たちが大人になり、その能力を発揮してこそ教育の成果といえるだろう。