この先の日本に望むもの

 曇り。昨日の雨は上がり秋晴れを期待したがそうは成らなかった。ここら辺りは普段なら秋は本当に雨が少ないのだが、今年は晴れる日の方が少ない。

 世間では、鳩山内閣の話題と、酒井被告の保釈の話題でTVは埋め尽くされている感がある。日本は、余りにも平和なのかもしれない。それ程国民は豊かな生活を送っている証拠だろう。

 例えば日本にもホームレスが存在するが、その原因は、経済的理由と言う他に、世を捨てなければならない何か別の理由が存在する。そういった理由が無ければ、生活保護などの福祉の手立てはあるからである。
 しかし、外国ではホームレスは、本当に経済的理由でホームレスにならざる得ない経済的理由で仕方なくホームレスになる。

 もし本当に貧しい国なら、ニートと呼ばれる若者たちは、既に路上生活者にならざる得なかっただろう。親の財産があり、住むところがあるというだけで、自分から食うための努力を放棄し部屋に閉じこもる生活を送る事が出来る。

 それは、金持ちの家に生れたからと言う、生まれながらのスタートの差ともいえる。もし、人間が本当に平等ならそう言った事は起こらない。しかし、生まれながらに貧富の差があり、それを受け入れる世界がある。親が優秀だからといって子供が優秀とは限らない、親が政治家だからといってその子供が政治をする能力に長けているとも思われない。
 そうして人の人生が決まっていく。少しの努力で幸せを掴み育つ人が居れば、少ないチャンスを必死に獲得する事で高みに上ろうとする人間も居る。もし、自分が金や権力を持つ家に生れればどれだけ楽な人生を歩めただろうと思うこともある。

 金や権力が全てではないのは間違いない。それで人生を狂わす人も居る。それも人生ともいえるが、少なくとも同じ土俵の上に乗っかった状態で判断して欲しいと思うのが人間だろう。
 この日本と言う国が少しずつ変わってきたのは、やはり金や権力が全てとなった時からなのだろう。
 以前の総理大臣は、自由競争社会、自己責任とのたまいながら、自分の息子に下駄を履かせ表舞台に立たせようとする。その矛盾した行いが日本の社会の全てなのだろう。
 
 自由競争とは、そもそも少なくとも同じ状態で、能力を比較できる状況があってこそ競争を行う事が出来る。その状況を作らず、片方に有利な条件をそろえることが自由競争ではない。それは出来レースと言うものである。

 この先の日本は、本当に大変だろう。既に特権階級が日本の中に出来ており、目に見えにくい階級社会が出来上がっているからである。
 今度の民主党政権がその階級社会を破壊できるとは思わない。議員と言う職業が既に特権階級だから、それを破壊する力は既に無い。自分が望む事は、本当に自由競争が出来る社会を生んで欲しいということである。金が有り権力があっても正当に評価されその地位を失う社会である。お金が無くても競争し能力が有れば上にいける社会である。
 その実現には、目に見えない特権と言われるものを少しずつ機能しない世の中を作ってもらう事に他ならない。