貧しさ

 朝は非常に冷え込んでいる。雪は降っていない。


 何時も考えるのだが、貧しさは心の問題であり、物質的な欠乏を表すものではないのだろうと。

 日本の至るところでこれから年末にかけて、街頭に立ち大きな声で募金を訴える姿が目に付くようになる。お金で解決する貧しさはあるのは否定しない。
 わずかな金額のワクチンで救える命もある。しかしそのお金で買えた豊かさもそれが永続的なものにならなければ、何時までたっても心が満たされること無く貧しさを感じることになるだろう。
 一時の豊かさが麻薬のように記憶に残りまた満ち足りた幸せを得たいと思うだろう。物質的な幸せは常に満ち足りていることが条件であり、それ以上の幸せを得ようとすればそれ以上の何かを得なければ満たされない。
 
 しかし、それもある限度を超えるとその物質そのものが心の豊かさを奪い去る時がある。ものがあるが故の、それ以上の喜びを得ることが出来ないことに対する心の隙間とも言える瞬間が続けば徐々に何も無い時の生活に人は戻ろうとする。

 冒頭にも書いたが、豊かさは心の中にあり心の外に無い。幸せと感じる心があれば貧しく見える生活も豊かな生活に思えてくるはずである。
 日本のように物が当たり前のようにあり、いくらかのお金を支払えば誰も拒むことの無く目の前に差し出される生活に慣れてしまうと、それが当たり前のように思えてくる。その豊かさが無い生活に苦痛に感じるだろう。物質的な貧しさが心の貧しさとシンクロしているような国の国民は幸せでもあり不幸せでもある。

 もしどこかの国のように、物質的に恵まれず、電気さえまともに灯らないような生活をしていても心が貧しさを感じなければ不平をもらすことは無い、それが当たり前であれば心にそれが本当に貧しいことだとは分からない。
 日本が開国した最、欧米はさぞかし日本の暮らしが文明的ではなく貧しい暮らしをしていると思っただろう。しかし、その頃の日本人は自分たちの暮らしが貧しいとは感じなかったはずである、何も外の生活を知らなければ。
 
 そして、自分たちが暮らしている国の外では、自動車に乗り飛行機が飛び飛びきり上等な料理を何時も食していると知ったら、今まで自分たちの生活が豊かだと思っていたものが急にみすぼらしく思えてきたはずである。それが心の貧しさを産み、豊かな心を失うことになるのだ。

 日本の近くにあるどこかの国が、いくら日本に居て貧しい暮らしをしてかわいそうだと思っても、その国で生活をする人が貧しさを感じなければ国に不満を漏らすことは無い。却って自分たちの生活を守ってくれる神のような存在だと感じるだろう。
 そして、その生活や国の営みを外から宣伝するような国は、自分たちの暮らしを破壊しに来る憎き外敵となる。

 いくら日本が暖かい外套を差し出してもその国が寒さを感じなければ無意味なことである。そしてこの先何十年、何百年とこの関係が続く可能性もある。もしそれがなくなるとするなら、それは外敵と思われる国が無理やりその習慣を押し付けるか、その国の内部で不平不満が爆発する時だろう。それは、日本人が考えているほど生易しくない。

 今の日本は、心の貧しさを物質で補おうと一生懸命である。歴代の政府もそのためにだけ努力してきたともいえる。しかし、物では何時までたっても夢を食う獏のように心の豊かさを奪っていくばかりで本当の豊かさを感じさせることは出来なかった。
 これからの時代、心を豊かにする精神的な幸せを持てる工夫をしなければ、何時か麻薬患者が破綻するように日本の国民の心も破綻してしまうだろう。