通夜

 曇、本当に夜明けが遅くなった。七時にならないと空は明るくならない。後二週間もすれば冬至を迎える。その時が一番夜明けが遅い日なのだから、まだ夜明けは遅くなる。

 昨日も知人の通夜に主席してきたのだが、何時も想像するのは、自分の葬式の風景である。この様に盛大にとかこの様に質素にとかである。
 だから気の早い人は、自分の葬式を見たいがために死ぬ前に上げてしまう人がいるのだろう。確かにそれだと、葬式の本人がまだ生きているのだから、だれが自分の葬式に出席するか確認できる。それ以外の理由も当然あるだろう。

 そしてそのやり方にも徐々に変化を認める。それは葬儀委員長を置かない式が増えたことである。お坊さんの読経は行うのだが、その後の挨拶は、式場の司会者がそのまま引き続き行うことが増えてきた。これも時代の流れなのだろう。

 また、最初挨拶に立った立派な風体の老人が挨拶を始めたので、てっきり町内会の役員かと思ったら、それも式場の用意した司会者で有ったのにびっくりした事もある。
 あの抑揚をつけた司会は、プロ並だったが逆に芝居がかって違和感を覚えもする。過度な演出は控えめにというところだろう。更にその次の機会の通夜に挨拶に立った老人も見事な話し方をするのでてっきりこれもプロなのかと思ったら、それは町内会長だった。余りの旨さは、相当葬儀なれしている感が有った。

 もう一つ思うのは、読経の後の法話だろう。あれも話す人の自己満足の度合いが強い。あれも何も無いまま終わる場合もあるので、読経代のコースの一種なのかなと思うが、これという話を聞くことはマレである。無難なところでお釈迦様の逸話程度を話してもらうのが為になると思うのだが。

 やはり天寿を全うした人の通夜は、ある意味清々しい。安心して出席できる。それ以外のものは、矢張り悲しみが先にたつため、心が痛む場面も多くなる。
 もし自分の通夜をするなら天寿を全うし、自分の位牌の前で宴会をして貰った方が良いだろう。