またもや最低気温を更新

 晴天である。その代わり昨日より確実に寒く、マイナス20度を下回った。確かに昨日の日中も気温が上がらず、夕方には、マイナス14度となっていたので、この寒さが一双厳しくなるのは道理である。

 これ程寒くなると、空気に緊張感がある。もし気を抜いて外に出たなら一瞬で体から熱を奪われてしまうような殺気である。少し言葉が大げさだが、それなりの心構えを指定ないものの外出を許さないきがする。

 予報では、今日から暖かくなる予定であったが、週末までこの寒気は、北海道上空に居座る予定らしい。

 小沢問題が漸く決着した。しかし、この問題をこれまで引っ張った検察、それを騒ぎ立てたマスコミの責任は重い。

 確かに、裏金は許されるべきではない。もしそういった事実があるなら、きちんとした収支報告をしなければならない。

 しかし、そういった方法を慣習化させた今までの政党、政治家、或いは公務員などもそれを見て自分たちも裏金を伝統化させてきた罪はあるだろう。

 その反省も無しに、検察が捜査しているものだけが絶対的な悪で、それ以外は許されると言うような風潮は如何なものであろうか。

 今回の問題は、政治資金の透明化を更に義務付けると言う動きで良かったはずである。

 更に何度もこのブログで書いてきたが、この時期にこの問題を上げる行動は、日本にとって非常にマイナスの影響をもたらした。

 民主党が政権をとってから半年、不景気に対する経済政策を話しあわなければいけない時期にこの問題を取り上げて議論することのメリットは何もなかった。

 経済政策の検証をしなければならない予算委員会においても、この問題の議論や野次で正常な審議の時間がなかったと言ってよい。

 もし、日本が世界の中で最も景気回復が遅れたとしたら、だれが責任を取るのだろうか。

 マスコミは、自分たちの商売からスポンサーが撤退していることを問題にしているが、景気が回復しなければ自分たちの商売も回復しないことを理解しているのだろうか?その精神構造が本当に良く判らない。

 今回の件不起訴になったが、やはりあらぬ疑いがあった場合、今後もこの様なあたかも犯罪が確定したような報道がされるべきなのだろうか?今後のマスコミの対応を注目したい。

 しかしながら、今の日本は、有形無形の海外からのジャパンパッシングを受けている。それは、自国の不安の目を他国を貶すことで逸らさせるようにする陰謀に思えるものである。

 その典型が、トヨタの問題である。ある意味日本から見れば、自国の自動車メーカーを生き延びさせるために、自分たちの国に進出してきたトヨタを地に引きずり下ろすことで自国の産業構造を守ろうとする。日本からしてみればどうしてと言うような事が平然と行われる。

 徐々に、不景気の国は、自国の経済を守るために保護主義化してきている。その中で日本だけが、のほほんとお気楽に自国の今緊急に必要としている課題に取り組もうとしていない。

 他の国は、自国が生き残るために後で卑怯と言われようと構わないと考えている。それは、まさしく政治ゲームである。

 もし、日本の検察がアメリカの犯罪を裁くとすれば、次から次へと政府を起訴しなければならない。

 しかし、アメリカ政府の高官や大統領が起訴されたと言う話しは、聞こえてこない。政略と犯罪は分けて考えられているからである。自国の安全と利益のためには、戦争は善であるからである。

 翻って、政治センスが無い日本は、自分たちが住む国の利益にならないことでも平気でやってしまう。その潔癖性はどこから来たのだろう。

 何故なら日本の戦国時代は、どんなことをしてでも自分たちの国を守るという日本人が多数であった。そしてそれを守るためなら相手から卑怯と言われようと手段を選ばなかった。

 それが変わったのは、やはり江戸時代が始まった頃からなのだろう。自分たちの権力を維持するために法律を作り、それを破ることが絶対的な悪になってしまった。

 その法律がどんなに酷いものでもそれに逆らえば、罰を受けるようになってきてからだろう。それが統治と言うものだった。

 

 幾ら正義を振りかざしても、自分の国が滅ぶような正義は正義ではない。そもそも自分たちが作った法律の中で動かされるルールであり、あくまでも日本国内でしか通用しないルールである。

 

 確かに、戦争の無い世界は正しい世界で有る。しかし、幾ら日本だけでそれを声高に叫んでいてもそれに耳を傾ける国はどれ程いるだろうか。

 例えば、外国に日本製品を売るために、正当な方法で売り込みを計ることができる国はどれ程いるだろうか、日本から見れば、不当な方法で商売を邪魔される例は多い。

 

 例えば、昔ならアメリカが貿易をするために、武力で開国を迫り強引に日本に不利な通商条約を結ばせたのではないか?

 その例は、今の現代の社会でも起きうることなのである。

 善悪の物差しは、一律ではなく人それぞれ持つものである。それが正しい正しくないに関わらず、それを適用する人、或いは人たちが適用するものである。その時は正しい選択だったかもしれないが、時間がたてばそれは正しい選択だったと言えない時もある。

 最後に断わっておくが、犯罪は許されない。殺人や強盗が許されるとも思っていない。これは、正当に罰せられるべきである。

 しかし、政治に係わる犯罪は、評価が難しい。政治はまさしく政略と紙一重だからである。