いじめかっこ悪い

 曇り、風は冷たく並木道の枝には取り残された枯葉が風に揺れている。歩く都度に地面に落ちた枯葉を踏みつけ乾いた音を立てる。本当に気温も風景も心も何もかもが寂しく思える。


 年末も押し迫り、寂しい世相がそうさせるのか、日本人の顔色がさえない。エコポイントで空前の売り上げと経済面に書かれ同じ紙面に、大卒の就職率が最低という記事が躍る。

 普通景気が良ければ、人を採用しより一層営業や開発に力を入れるはずだが、企業はその利益を来たるべき不況に備え内部留保や海外投資資金にしているようだ。そのためいくら利益を上げても国民に金が回らない仕組みを日本人自ら行っている。それでは、いくら政府が経済対策をしようとも水の泡である。

 更にその世相を反映するかのように、現在の内閣を批判する週刊誌の見出しが溢れている。その見出しを見る都度に、「いじめ」というキーワードが頭に浮かぶ。

 この内閣への攻撃は、留まることを知らない。昔から週刊誌の見出しは、扇情的であった。それでないと読者は振り向かないと思っているのだろう。それが次第にエスカレートして今の状況に陥っているのだろう。

 この社会の構図は、集団のいじめ行為を大人自ら演じているとしか言えない。子供のいじめをいくら非難しても大人社会がそれを自ら実践していては、だれもそれを悪いと思わなくなるのは自然なことである。

 

 そしてマスコミの個人攻撃の凄いところは、いじめの対象を常に見張っており、次の獲物が現れるまで食い散らかし、新たな対象を見つけるとその餌食にしていた獲物に見向きもせずに飛び移る。

 マスコミは、公器であるという。報道で戦うという使命があると。しかし、本来マスコミの仕事は、一般公衆に対して情報を提供することだろう。マスコミ自ら対象に対して天罰を下してほしいとは誰も思っていないはずである。

 しかし、今までの経緯からマスコミは、自分たちが天罰を下す役割を文章で行おうと必死になり始めている。それは、自分たちの残り少ない命のともしびをわずかにでも先延ばししたいという欲望の現れなのだろう。

 そうでもしなければ、自分たちがこの世から消え去るという思いが、記事の中から顔を覗かせていることは書いている記者本人が感じているのだろう。

 そして、その道ずれに日本という国の将来までも地に引きずりおろしてでも今日明日の食い扶持を稼ぐために人生の一部を切り売りしている。その必死感が日本人の悲観的な心情とシンクロしていく。

 どこに明るい未来があるのだろう。或いはどこに明るい未来を見出せばよいのだろう。それは自分を含め、一人一人が自ら考え行動していくしかなのだろう。