大相撲

 曇り、その雲の切れ間から薄日が差している。その僅かな光も熱気を帯びている。

 朝のTVニュースを見て感じることは、その伝え方に慣らされているということである。ニュースは、限られた放送時間枠の中で伝える事を取捨選択しなければならない。そのため無駄な部分と思われることをそぎ落とし伝えることに成る。

 それは、そぎ落とす人間の感覚が優先される結果を招き、本当に見るものが知って置かなければならないことをもそぎ落としてしまうことに繋がる。
 もしかするとニュースとして伝えることがアリバイになり、本当に伝えたいことを国民に知らせないようにする作為を感じさせる場合もある。

 例えば、相撲の野球賭博問題についてもそうである。ニュースが本当に伝えたい事は何であるか本質をそろそろそらせ始めていると感じるのは、自分だけであろうか。

 今日のニュースの肝は、何か?それはNHKが放送を取りやめたということである。そしてそのバックの映像に大きな体をした相撲取りが深々と頭を下げる映像である。

 見ているものは、これで相撲協会はこの問題を反省したのだろうと感じるだろう。更に相撲中継が無くなり大変だなと。
 理事会も外部の人間が理事長代行を務めることに成り、それも元検事という偉い人だから安心と納得するだろう。
 
 そして名古屋場所が終わる頃には、野球賭博の話題すら上がらなくなるのだろう。

 では、この問題の本質はどこだったのだろう。それは、一力士が野球賭博で暴力団と繋がり更にその問題で恐喝されていたということである。
 しかし、その問題は、関わった力士が解雇されることで決着がついたことに成り、それ以上の詮索は無く、問題は何も解決されていないということである。
 これで、野球賭博はひとまず行われなく成るだろう。この問題が報じられることで一定の抑止力が働いたということだろう。
 
 しかし、相撲協会と暴力団の関係は、一体ズブズブなのかそうでないのかハッキリしないまま闇に葬られるわけである。
 
 そしてその片棒をニュース番組が担いでいると言っても過言ではない。情報の流れが余りにも早く多すぎるため誰もそのニュースの本質について深く探ろうとはしない。
 本当に視聴者に伝え無ければならないのが何かを考えるのは、あくまでもTVや新聞のメディアが主体であり、その匙加減は、伝える側にある。
 見る聴く者は、その事を受け止めるだけで、あのニュースはどうなったと放送を要求することは不可能である。

 しかし、その中で一つの希望があるとしたら、NHKの放送中止が、視聴者からの意見であったということである。その中止は、NHKが望んだものではなかったということは、非常に大切な事である。それは、今後の放送の可否の双方向性を産むことに繋がる可能性がある。

 とは言っても、放送中止の理由を当事者が都合の良い様に利用しているだけという可能性があるし、視聴者の代表が、本当は、政府や企業などという既存の権力の隠れ蓑に成っているだけかもしれない。