阿久根市

 朝焼けが綺麗である。そして気温は低いが零下ではない。夜から雨か雪になりそうということである。

 
引用 日刊スポーツ(http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20101206-710544.html) 

阿久根市長 リコール

 強引な市政運営が主な争点になった、鹿児島県阿久根市竹原信一市長(51)に対するリコール(解職請求)の是非を問う住民投票が5日投開票され、賛成が7543票、反対が7145票と、賛成票が有効投票の過半数に達しリコールが成立した。竹原氏は失職、来年1月に出直し市長選が行われる見通し。市民から、政治手法にNOを突きつけられた竹原氏は同日深夜会見し「残念という気持ちはない。市民が市のことを考える良い機会になるよう期待阿久根「ブログ市長」失職 リコール成立

 今日の朝のTVでテレ朝の吉澤アナウンサーがこの市長の事を嘆いて見せていた。しかし、このようなことが起こるのも、自分も含め日本人の民度がこの程度だということの証である。そのことをもっと強調してほしかった。

 菅政権の不手際も同様に嘆いて見せていたが、日本国民のレベルがあの程度だということである。まさしく国民の姿を映す鏡である。
 道徳の時間ではないが、あの民主党政権の姿を見て嘆いて見せる前にやるべきことを国民がしているかを問う必要がある。自分たちの生活を顧みず人を非難することは簡単である。しかし、その非難はやがて自分に帰ってくるブーメランのようなものである。
 
 人を非難することは容易い。それに賛同してくれる人がいれば更に言葉は饒舌になる。しかし、行動が伴わない饒舌は、ただの扇動者であって騒ぎを起こしたい人間である。

 国民一人一人が、国を良くしようとして行動することがまず基本である。こう書くとまるで道徳の教科書になってしまうが、それ程日本にいながら日本という国のあり方を考えていない人が増えているということである。
 ハッキリ言ってしまえば、日本だけが自由で素晴らしい国作りをしようとしても、世界の国が自由でなければ絵に描いた餅である。

 自由を謳歌しようとすればそれなりにそれを守るための負担が必要である。自由に人が生きるためには、それを許す環境が無くてはならない、一人の自由な行動は他人の行動を制限することも有りうる。
 それぞれの人間の自由な行動を制限する何らかのルールがあるからこそ自由は守られる。更に国による保護も同様である。誰かが特別に優遇されることがあってはいけない。日本国民が誰もが同じ条件で暮らせることが保障されて初めて国による保護が受けられる。
 誰もが国の過保護を受けることが出来ないことが前提で物事を考える必要がある。利益も同様である。日本国民全てが平等な権利を保障された上で利益を得ることは許される。ある特定の個人や団体が国民の利益なしに不当な利益を貪ることは日本国内において許されるべきものではない。
 
 しかし、現代の日本人は、その利益を得ることは当然の権利として考えている節がある。しかし、それは国に対して貢献して初めて保護や利益を得られることを理解しなくてはならないのである。それが無い上で自分だけが利益を得ようとする人間が多ければ多いほど国は崩壊していく。

 冒頭の阿久根市長の言い分も正しい面がある。反対派の意見も正しい面がある。しかし、お互いに正しいと主張する正義は、お互いが同じ土俵で争われなければ成しえないものである。
 正義は、お互いにとって正しいものでなければならないとしたら今回の阿久根市の問題は、日本人に突きつけられた命題である。どちらの主張が正しいのか日本人全てが考えなくてはならない。
 
 それが解決してこそ国民による国民のための政治が行われると考えるからである。この問題を、お互いの主義主張を言い合うだけでは何も解決しないし、今後このような自治体が増えていくのではないだろうか。