政治評論家

 曇り、気温はマイナス5度前後。

 

 既に暦は2月を過ぎもう一月もすれば、春一番が吹く。何かと忙しい日が続くと冬の長さを感じなくなってしまった。

 こんな感じで日常が過ぎれば、次の冬の心配をしなくてはいけなくなってしまう。時の過ぎる時間にあせりを覚えるのだが、だからと言って毎日が凄く充実しているわけではない事がこの焦燥感を募らせる。


 今日の朝のニュースで、国民新党の亀井代表、自民党の森元総理、そして民主党の鳩山元総理が会談したと報じていた。

 

 余りにも酷い顔合わせである。日本を救うどころか国民の政治への信頼感を損ねてきた方々の集まりである。

 鳩山さんもきっと誰も自分の言葉を聞いてくれないものだから必死なのだろう。しかし、そもそも政権を投げ出すような御仁が総理大臣になるべきではない。それを理解していないのだから終わっていると言うか、それを担ぎ上げる日本人もそもそも原因の一端があるのは判っていても、何故と言う言葉が浮かぶ。

 最初は、日本の素晴らしい人材が能力を発揮するのだから、神輿の上に上がるのは少し抜けているくらいが丁度良いと自分は思っていた。

 神輿の上で、にこやかに担ぎ上げる人の頭を見ていれば良いのだろうとおもっていた。しかし、現実は、担ぎ上げる人間もそれに値する能力が無い人間ばかりであったと言う事である。

 もう少し日本が危機的状況にならなければ、国民が一丸となってこの危機にあたると言うような考えには到達しないのだろう。或いは既に危機的状況になってしまっても、評論家ぶってけちはつけるが何もしない人間ばかりになのかも知れない。

 確かに今の状況で国民が、何も文句も言わず政府の言葉にイエスばかり呟いていたらそれはそれで気味の悪い国家になってしまう。

 ただ、昨今の気味の悪い評論番組ばかりを見ていると、公共の電波で政府批判を繰り返す評論家たち事態があれだけ国民に向けて批判的意見を述べるのなら、政党でも自分で作り自分の主義主張の正しさを証明してみろと言いたいのである。

 ああいった番組は、一見国民の意見の代弁者のように振舞っているが、日本にとって何の足しにも成らないことである。

 TVの評論家として大層な意見を述べていた人が国会議員になってみたが良いが、その大言壮語を繰り返していた人物とは思えない活躍ぶりである。

 

 自分の言葉に責任の無い所で評論家ぶっても何の屁のツッパリにもならない。あの言葉に素直にうなずいているTVの視聴者は、洗脳されているに過ぎない。

 絶えず悲観論を述べていれば、いつかは当たる。それは決して前向きな言論ではない。今の政府が悪いのであれば、それに対する批判と同時に、対論を論じ更にそれへの道筋を見せるべきである。

 民主党マニフェストもそういった意味で自民党の政策を批判するために、自分たちが行おうとする政策を論じそれへの道筋を示したと言う意味で立派である。

 それが実行できなかったという能力の無さは非難されるべきのものであるし、それに対してそれに反対する政党は実際にどのような政策があるのか国民に示すべきである。

 

 自分たちで考えもせず、何でも政府の非難ばかりしていては、国民は判断のしようが無いわけである。

 

 少なくとも、日本の行く末に何の役にも立たない政治評論家と呼ばれる方々は、成熟した社会では無用の産物である。