舌禍

 秋晴れ、青空が広がり非常に気持ちの良い朝である。

 野田新政権が発足した早々、「舌禍」で鉢呂大臣が辞任した。

引用 ニコニコニュース(http://news.nicovideo.jp/watch/nw113802

鉢呂経産相の辞任は記者クラブによる「言葉狩り」か? 失言報道の在り方を考える

 鉢呂前経済産業相の舌禍による辞任劇から2日経った2011年9月12日、経済産業省では後任の枝野幸男官房長官が就任会見をおこなっていた。今回の鉢呂氏から枝野氏への交代のきっかけとなったのは、鉢呂氏による福島原発視察後の「死の街」と「放射能をつけるという趣旨」の発言だ。これらの発言に対して一斉に批判的な報道をおこなったテレビ・新聞などの大手メディアだが、一部のインターネットユーザーとの間にはわずからならぬ温度差があった。

 鉢呂氏は、辞任会見で「死の街」発言には言及したものの、「放射能をつけるという趣旨」の発言については、「確信がない」「記憶していない」と言うにとどめ、具体的な内容を明らかしなかった。報道によると、この発言は大手メディアで組織される「記者クラブ」に所属する記者らとのオフレコ懇談会での発言であるという。

 この「オフレコ懇談会」、民主党宮崎岳志衆議院議員によると「建前上、録音が許されていない」とされる。事実、この発言を報じたメディアによって、「ほら、放射能」「放射能つけた」「放射能をうつす」など、発言の表記に「ばらつき」が存在している。

引用先のニュースにもあるが、大臣と「記者クラブ」と呼ばれる特定の記者が囲んで話す囲み取材の中での発言であった。


引用 北海道新聞http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/318106.html

「オフレコ」報道に見直し論 政府・与党に不快感

鉢呂44 件吉雄前経済産業相の辞任の引き金となった報道陣との非公式懇談をめぐり、政府・民主党内で在り方を再検討すべきだとの声が上がっている。記事化を前提としない「オフレコ取材」は記者が政治家に匿名で背景説明などを聞く手法で、報道の自由の問題も絡むため、論議を呼びそうだ。

 藤村修官房長官は11日午後の記者会見で、鉢呂44 件氏の「放射能をうつしてやる」との趣旨の発言について、「報道された件は非公式懇談で(出たもので)、報道と本人の言っていることが違うようだ」と述べ、報道内容に不快感を示した。

 民主党輿石東幹事長は12日午後、鉢呂44 件氏との非公式懇談の内容を最初に放送したフジテレビの報道担当幹部と会い、事実関係を確認。この後の記者会見で「報道の在り方を、みなさんももう一度考えていただきたい」とオフレコ発言を報じた取材姿勢に疑問を呈した。<北海道新聞9月13日朝刊掲載>

道新の記事にもあるように、「オフレコ」との条件で話されたものであったらしい。そしてそれを堂々と破り記事にするということは、今後「オフレコ」の発言も記事にするということを「記者クラブ」が宣言したに等しい。

人は誰しも軽はずみに状況をわきまえない言葉を発してしまうことがある。それは矢継ぎ早の質問に答えるとき、あるいは場の雰囲気を盛り上げるためにと色々な状況の中で、頭に浮かんだ言葉をつい口にしてしまうことは誰でもありうる。

上記の発言が、公式の場で発言されたのなら大問題であるが、身内、仲間内などではつい発言してしまうたぐいのもので、大臣の資質をそれで計られては、今後大臣の成り手は存在しないだろう。

鉢呂大臣が公式の場で問題とした、「死の街」発言であるが、その単語の意味を拡大解釈すれば悪い意味にとられるし、普通の表現ともいえる。その文脈の中でどのような扱いであったかが重要である。

これも、言葉尻をとらえれば問題発言だと言えるが、正直、本当に問題なのかと疑問に感じる。


こういった新聞記事を読むと、本文の最後に、「今後この発言は問題となると思われる」等の結び言葉で締められ、如何にもこの記事で国会で、世論で問題にしてくれと訴えていて、自分たちの飯の種を増やして欲しい願望がストレートに語られ、読んでいて不快感を覚える。

昔の新聞記事にこのような結び言葉が使われていただろうか?最近の風潮のような気がするのだが、昔の新聞を持っていないので何とも言えない。

マスコミは、何か事件が起こらないと記事が書けない。それが無ければ自分たちで探してくる必要がある。今回の件も、野田政権ができてすぐの時期に一人大臣が辞めれば引き続き色々なもめごとが起き自分たちの地位が安泰であるという思惑が透けて見えるのである。

毎朝の新聞の紙面を飾るために記者は仕事をする。紙面がスカスカでは購読者は増えないからである。そのためには、毎日騒がしくそこかしこで事件、事故が起きていなくてはならないのである。

人々がこんなに幸せなのですと言う記事を書くのは苦手で、こんなにこの人は苦しんでるんです。この人はこんなに悪い奴なんですという人の黒い部分を記事にするのが得意なのである。

大臣たる者、いつなんどきでも失言をしないという事になると、やはり注意するとなると会話をしないということになる。本当にそれで良いのかマスコミも考えるべきだろう。