「情報」の課題

 晴れ、雲はかなり多い。朝方は雪が降り路面が一時白くなるほどだった。

 今回の大地震もあれから既に3週間が経過した。被災地以外は徐々に平常の生活に戻りつつある。ただ、普通の日常が時間通りに流れることにより、被災地の方がまだ避難生活を送っており、さらにまだ行方不明になられた方の確認がされていないという事実を忘れてはならない。

 今回の大地震は、阪神・淡路大震災と比較されることが多い。阪神・淡路大震災は、平成7年今から16年前に起きた災害であった。すでに神戸の街並みは、震災に見舞われたとは思えないほど復興をとげた。あの当時、高速道路がドミノ倒しのように映し出された光景は脳裏に焼き付いているが、その高速道路もあの風景が嘘のように車が流れている。

 しかし、あの辺り一面が焼け野原になり大勢の人が亡くなったことは事実である。

 そして今回の大震災があったわけである。16年前と今回と違うことは何かというと、情報量だろう。

 あの当時、すでにインターネットは十分に発達していた。更に携帯電話も普及し始めていたころである。今と何が違うかというと、そこに流れる情報量といえるだろう。

 そして変わらなかったものと言えば、マスコミであった。

 阪神・淡路大震災の際、マスコミの取材ヘリの騒音のため人命救助の妨げになったと言われ、マスコミの反省材料とされた。しかし、今回もその反省などなかったのように上空を各局の取材ヘリが飛びまわった。

 確かに現場からの映像は、テレビ局のスタジオから放送するよりも視聴者に興味を引かせるものだろう。しかし、災害は娯楽ではない。視聴率を上げる道具でもない。
 そのため、被災地の上空を飛び、救助を求めている人を見ても、ただその人の不幸を映し出すだけになる。あなたたちは安全な上空を飛びながら何を見ている人に訴えたかったのだろうかと問いかけてみたい。

 さらに震災報道も、各局が同時に同じ話題を取り上げて放送し始めるに及んでは、これほどチャンネルが必要なのかとさえ思わせる放送だった。

 ある局などは、局舎内で放送中にヘルメットを被りマイクの前で原稿を読む姿を放送して見せた。その後ろには、軽装の局員が何人も座っている姿を映し出している中である。局側にも言い分はあるだろうが、その姿は、災害でも演出を加えエンターテイメント化しようとしようとする本音が透けて見えるようで非常に不快だった。

 さらに被災者の姿を映し出す放送も、あくまで自分たちは安全圏にいながら不幸に見舞われた人を映し出すことで優越感や、自分の幸せを確認するためだけの放送にしか見えなかった。

 もし、あれだけの放送の準備をして被災地に向かうならその半分は、被災者向けの救援物資を運ぶ役割を果たすなどの姿勢を見せるべきだろう。そういったパフォーマンスでも偽善でも良いから行ってほしかった。
 被災地がガソリン不足や停電の被害に合っている中でテレビ局だけが何事にも優先されるということがあってはならないはずである。

 それと比較して、ラジオ局は映像が無いため言葉による現場の状況を伝える放送が多く、かえって災害の様子を伝えるには適した媒体である。災害時には、テレビよりラジオを有効活用した方が良いのかもしれないと再認識した。

 インターネットや携帯メール等の情報網も役立つ面と役立たない面がある。その一つが不確かな情報の伝搬である。情報のソースがあくまで伝聞であったりマスコミ報道であったり噂話であったりするため情報の質からいえば信頼性が極端に落ちることが証明された。

 確かに目の前の光景を携帯カメラで押さえネットに流せばそれは情報と言えるだろうが、その範囲は映し出された極一部だけでありその後ろの写しだされなかったものに多くの情報が存在するからである。
 一人一人がいくら情報を載せたとしてもそれが整理されなければ、デマと同じである。真実は裏付けやそのほかの付帯情報が集まって初めて情報として生きてくる。
 
 ネットやメールの即時性は、個人の生存確認に生きたというべきだろう。しかし、残念なことにその情報網も、地震による災害で不通が余儀なくされた。それが今後の課題だろう。もし災害に強い情報網であったなら生存確認に非常に有効な手段である。

 このように今回の災害は、情報というもののあり方を改めて問いかけなおしたと言って良いだろう。今後のマスコミ報道の改善点を示したと言って良い。もし、それでも今後また起こるであろう災害時でも同じような状態であるなら。報道規制を行うべきものなのかもしれない。

 さらにインターネット、携帯電話網もこのような災害を想定した、インフラの整備が必須だろう。通信網が今回破断したKDDIのように一つの情報送信経路だと復旧に時間がかかってしまう。何らかのバックアップ方法を備えておくことが重要だろう。