混迷

 曇り、少しかすんだ太陽が雲を通して朝日を降り注いでいる。気温は5度くらいである。


 最近の報道を見て感じるのは、北京オリンピック頃から流れ始めた中国脅威論および体制批判の論調が多くなり始めたことである。

 今までは、社会主義の秘密主義から国内の様子は細々と伝わり、それを元にして日本に情報として公になるというものだった。
 20年前までは、粗末な服装、粗末な家で暮らしていた中国の人が、今や日本の都会と変わらない高級な家に住み、流行のファッションを纏う生活をするようになった。

 それ程劇的に国が変わった。それは、日本の戦後の高度経済成長を思い出させる光景である。あの頃の日本も経済成長を追う余り、公害という環境被害を見て見ぬふりで邁進していた。

 その時と同じように、経済成長が第一優先でそういった自分たちの生活環境を犠牲にしている様子は、日本と同じ道を歩んでいると言える。

 ある程度生活が豊かになれば、自然と自分たちの生活が危険と隣り合わせであると冷静に見つめなおす日が来るのだろう。その時中国という社会体制はどのように変化を遂げるのだろうか?

 今と同じ、一党独裁国家として国が成り立って行くことは、当然考えられず、そのうち党内分裂を引き起こすことは間違いなく、もしかしたらまた歴史を繰り返す恐れがある。それは、かの国の伝統と言えるものだからである。

 それに対して、日本は、どう対面するのかが問われるのだが、すっかり平和ボケした日本という国は、そういった緊急時の対応というものについての基本的な考えを持たない国である。ある意味、出たとこ勝負、破れかぶれで、その場限りの対応しかできないだろう。

 更に、例として挙げるならギリシャの対応である。世界経済が立ち行かなくなったとしても、自分の生活が大事であり、目先の利益を追い求めるている。
 ギリシャ国民は、世界経済が立ち行かなくなったとしても、電気や石油、工業製品が今までのように自分たちの所に来ると思っているのだろう。それは、冬の寒さの厳しさを知らない国民性なのかもしれない。 

 もし、日本が経済危機に陥り、生活費を切り詰めて暮らしていかなければならないとしたら、ギリシャのような生き方を望むだろうか?日本人なら世界の国から攻められれば、頭を下げ従順に従い、その鬱屈した精神を溜まりに貯めて、何時か爆発させるのだろう。その姿は、大石内蔵助の討ち入りと同じである。

 日本という立ち位置が不安定になった今、誰かに正しい答えを求めようとしているのに、誰もが明確な処方箋を出せず、行き当たりばったりの意見をいう。その姿を見て、国民は右往左往あるいは、聴かぬふりをしているのである。

 しかし、この先の未来を生き抜くために、日本人は考えなければならない。この先どのような社会を求めるのか、そしてその機会を今回の大震災が不幸な結果だけれども日本人に与えたものと思う。