責任

 晴れ、気温も朝の6時で18度と涼しくなってきた。風もカラッとして漸く秋が来た感じである。秋の到来の遅れは、食欲の秋にも影響を及ぼす。


 今の大人たちに責任の取り方の概念が有るのか判らない。昔の日本人もそうだったと言われればそうだったのだろう。しかし、今は、色々な責任者たちがテレビを含めたマスコミに登場する機会が増え、その人間性までも明らかにしないと政治を行えなくなってしまった感が有る。

 マスコミの露出が過多になるあまり、その場で発言した内容が何時までも残るようになり、言行不一致の状態が良く起きるようになった。そのため大衆には、その言葉尻をとらえられ直ぐに責任問題に発展するようになった。

 そして、それが頻発するために大衆は、政治家の発言は軽いものだとレッテルを貼られ、何時もの事だというように流されるようになってきている。

 そういった風潮は、言論についての責任という物を曖昧にしてきてしまった。朝令暮改は当たり前、大衆には耳触りの良い言葉を並べ、裏では何をするか言っているか判らない状態である。そこに責任という物は無い。有るのは無責任である。

 日本の中枢がそうなれば、日本全体が無責任社会になるのは仕方が無い。誰もが自分の失敗の責任を取らなくて済むのだとしたら、何処に信頼が生まれるのだろう。信頼が無い社会に安全は無くなる。

 しかし、不思議なことに責任は取らずとも社会が動く、その一つの理由は、大多数の日本人がルールに従うという事だろう。責任は取らないが、規則には従順に従おうとする。その規則を破れば罰則を受けることになるが、責任の代りに罰則は受け入れることができる社会なのである。

 その無責任ながら規則を守る日本人が大量に発生して今の社会が有る。だから、何もするにもマニュアルなり規則が必要になるのである。書いてあることがすべてであり、書いていないことは守らなくて良い。社会の常識や道徳といった明文化されていない物に対して無頓着であり知っていても無視する。だから何時も間にかマニュアルが出来上がり規則が作られる。

 きっと政治はこれでは動かない。まず外交が不可能であろう。マニュアル通りに動く他国は存在しない。存在したとしても、いかなる時でも同じ動きをするとは限らず、その場その場で臨機応変の対応が必要になる。その対応のマニュアルが存在しなければ組織が動かないとなれば、そこに外交というものは存在しない。それならコンピューターに任せておけば良い話である。

 きっと日本のこの先に有る未来に有る落とし穴は、そのマニュアルに書いていないことが起きた時だろう。

すでにマニュアルにない出来事として、東日本大震災福島第1原発事故が起き、その対応に右往左往したではないか。