原発停止

 晴れ、朝方で気温は10度を超えている。

 5月の連休最終日頃に開花したと思ったら、もう既に葉桜に近い。今年は、開花が遅れそうと思っていたらそんなことは無く、あっという間に散って行った。

引用 毎日新聞(http://mainichi.jp/area/hokkaido/news/20120507hog00m010002000c.html

 5日深夜に発電を停止して定期検査に入った北海道電力泊原発3号機(泊村、出力91・2万キロワット)は6日午前4時に原子炉が完全に停止、7日午前11時11分に炉内の水温が100度未満になり安定する冷温停止状態となった。

 泊原子力発電所が発電を停止したことで、日本の原発の全てが稼働を停止した。

 原発反対派は、直ちに停止を求め、全ての原発の再稼働を許さない勢いである。このblogで何度も書いてはいるが、全ての原発の廃炉を進めるにも、耐用年数と安全性が確保されるなら、その期間稼働していてもしていなくとも安全性は同じである。

 もし、廃炉を進めるにしても、核燃料をそのままの状態で保存するわけには行かない。半永久的に保管する場所を確保しなくてはならないのだが、残念ながらその保管場所も決まっていない。まず、今原子炉内にある核燃料と使用済みの核燃料全てをどこかに移動しなければ廃炉にはできない。

 では、どこか別な場所に移動できないのだとしたら、今の状態で保管して置く必要がある。だとしたら、合理的に考えれば、そのままの状態で発電を行っていても掛かる費用は同じだとしたら、発電を行っても問題は無いと考える。

 だからと言って、自分も原発推進派ではない。全ての原発は、最初から作らなければ良かったと考えていた。しかし、その思いとは別に出来上がってしまったわけである。そういう選択を日本人がしたわけである。止めることを決めるのも国民の権利であるが、使いたい側と使いたくない側が、明日に結論を出そうとしても早急に決まることは無い。

 だとしたら、今稼働中の原発は、耐用年数まで使用し(延長はなし)、新規の原発は作らないという腺で議論を纏めるしかないではないだろうか。

 それ以上の黒白を明日に求めるのは、国民を分断することと同じである。感情的には、原発は直ぐに無くしてしまうというのは、判りやすい。それで国民生活が成り立つならその選択もありうる。
 しかし、どう見てもこれからの原発の廃炉費用を確保するにしても、今の日本の財政状況で生み出すのは、困難に思えて仕方が無い。

 福島の除染の問題もそうである。福島の放射能汚染をゼロにするには、砂粒の中から埃を選り分けるに等しい作業を行わなくてはならない。その問題を解決するのは、日本の他の住民生活を犠牲にする覚悟がいる。
 
 本来なら、東日本の地震からの復興は、日本の産業をもう一度復興させる起爆剤になる事業だと思う。今まで、過疎化が進む東北地方の都市整備も併せて行えば、また暮らしやすい東北が戻ってくるはずだった。

 しかし、放射能汚染という厄介なことが復興を妨げ、日本が一つになることを邪魔している。その一つが原発問題である。こういった今まで大きな事故が起きなかったことが、国民の心を乱し続けていることは非常に残念なことである。