雪まつり

 晴れ、まだ東の空の雲に隠れてお日様は完全に顔を出していない。気温はマイナス15度くらいとずーっと北海道は、冷凍庫の中に入ったままである。

 

 1月も1週間もすぎると新年気分は抜け、そろそろ新しい年の話題に移って行く。もう過去の事は忘れて次に移らなければ何事も進まないからである。

 その一つが、さっぽろ雪まつりの話題である。

 さっぽろ雪祭りが始まった経緯はさっぽろ雪まつりページを見てもらえれば明らかであるが、1950年に始まり、1955年から自衛隊が参加して今のような大雪像を作り始めた。

 その自衛隊の参加を巡って色々反対運動が有ったことを知っている人も多いだろう。平和の祭典を軍隊が作るのかという考えだったと思う。

 そこにイラク戦争への自衛隊派遣があり、北海道の第11旅団からも派遣されることになり、自衛隊の協力が縮小されることになった経緯がある。

 その時に、ボランティアによる雪像づくりという試みがされたのだが、やはり、素人が手作りするにもそのノウハウは無いし、大きさにも限界があることが判った。

 もし雪まつり自衛隊の協力をお願いしないというのならその時に、大雪像の規模を縮小してしまえばよかったのだろうと思う。しかし、その時にやはり観光としての雪まつりという主目的を無くすことはできなかった。

 観光の目玉を失っては、札幌の冬の観光地としての魅力がだいぶ失われてしまうからである。それが無ければ、冬に札幌を訪れる観光客の数は、大幅に減少してしまい、札幌の観光収入は大幅に減じることになる。

 そのせめぎ合いの中で、自衛隊雪まつり雪像づくりの参加に反対する声は、殆ど無くなったと言って良いだろう。

 また、もう一つの理由として、札幌に住む人間にとってさっぽろ雪まつりは、あくまで観光用の行事であるという冷めた認識が広がっているのではないだろうか?それは、もう一つの札幌の祭りである、よさこい祭りにも通じることである。

 話が、飛んでいるが、あれだけ反対していた一挙に消えてしまうというのも、その反対専門の運動をする団体がいるという事である。

 それが、日本全国を飛び回って自衛隊、米軍基地反対などの声をあたかも地元住民の反対の声として取り上げてもらうために活動していると言って良い。

 

 本来の地元住民は、既に自衛隊参加の既成事実を容認しているか、または、その事に関しても無関心で有るというのが大半だと思う。

 そして、今、その反対の意思表示をする人たちは、沖縄のオスプレイ問題に掛かりきりになっているため雪まつり自衛隊参加の反対の声を上げる人がいないということである。

 確かに、少ない意見を効率的に発信するには、マスコミが飛びつきそうな話題が有るところに集まり大声を出すことが効果的である。それは街宣右翼も同じである。自分たちの存在意義を示すためにも都合が良いからである。

 まあ、全てがそういった思惑ばかりで動いているわけでは無く、その時々の利害関係からそれを利用するという動きがどうしても出てくるため、一つの説明で片が付くわけでは無い。

 しかし、過去に自分たちが行ったことを忘れてしまうというのも余りよくは無い。何故なら反省なしに次の正しい行動は有りえないからである。

 だからと言って反省なしに何も行動できないというのも良くは無い。過去の事は忘れ次に進むという事は重要である。

 そういった意味で、意見の対立している問題を、なあなあで済ましていくことが問題であって、それを世間の目に明らかにする意味でも反対派の意見を表に出す必要性がある。

 ということで、雪まつりの話題が出たので、何となく思っていることを書いたのだが、これだけ多くの人間が係ると色々な事が簡単に解決することができない。

 

 今回書いた自衛隊の件も、もし可能なら市民ボランティアが立派な雪像を作るのか、或いは札幌市が人を雇い金を掛けて雪像作りをするのかを考えなくてはいけないだろう。もし自衛隊が参加するというのなら、その参加の是非について札幌市民の中で結論をだし、その時その時の流れの中で基準を曖昧にしていると、何時か雪まつりの存在意義が問われることになるだろう。