中学生と窓ガラス

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引用 毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/m20130225ddm041040102000c.html

24日午前3時55分ごろ、神奈川県小田原市栢山(かやま)の市立城北中学校でガラスが割れる音を近所の女性が聞き、110番した。県警小田原署員が駆け付け、校舎の窓ガラス計98枚が割られ、1階職員室が水浸しになっているのを確認した。同署は器物損壊容疑などで調べている。同中学では昨年12月にも窓ガラス28枚が割られており、関連を調べている。

 何故、中学生は学校のガラスを割りたがるのだろう?

 尾崎豊の歌に、バイクを盗み、学校のガラスを割る歌詞が有った。まあそれ以前から、何故か学校のガラスを割る中学生はいた。この歌詞を真似したというわけでもない。

 何となく、学校という体制に対して自分の姿を示すために、ガラスの一つでも割ってみるかという位の格好つけのようなものだろう。

 ガラスを一杯割ったからと言って何も生み出さないし、学校が荒れているという事を示したに過ぎない。もしかしたら、他校の生徒かもしれないし、高校生や大人がやったのかもしれない。

 昔、学校の窓ガラスを割るのは、ガラス屋の仕業という噂が有ったくらいで、これで利益を得るのは、ガラスを売る人間だけだろう。

 もし、体制に対して自分の存在を示したいのなら、昼間、皆が見ている前で行動すべきだろう。それが出来ないでこそこそ夜中にガラスを割って喜ぶのは、ただの小賢しい人間性を表現しているに過ぎない。

 まあそんなことを言っても、中学生にとってただうるさいだけだろう。学生の頃思い出すのは、担任の不良に対する姿勢であった。教室内が荒れないように不良に対して気を使う余り、他の一般生徒を気に留めない姿勢である。

 きっとあの担任は、不良一人を更正させたと勘違いしているかもしれない。その他の生徒のことなど記憶にも残っていないだろう。そこにあるのは、今と変わらない今日だけ無事に過ごすことを考えたサラリーマン教師の行動である。

 クラスには、クラスを統率するリーダー的グループ、学業が得意なグループ、成績が悪いグループ、不良グループ、可もなく不可もないグループと自然と分けられる。学業が得意で不良もいるだろうがそれは稀である。

 

 その中で、教師が一番気を使うのが不良グループである。何か一つ問題を起こせば、その解決に駆けずり回り他の業務に手が回らなくなるからである。ここに1年の最大の時間が取られることは間違いない。

 そして学業が優秀なグループに対しては、やはり指導の結果を求める学校教育では、進学実績が教師の評価に直結する。ここは次に大事にしたいところであるが、それなりに放任していても何とかなるグループでもある。

 学級を統率リーダーグループには、それとなく機嫌を取り学校行事の進行を任せておけば何とかなるのでここも押さえておきたい。後残りの、成績が悪いグループと、他の一般生徒たちは、何も事件を起こさない限り、それとなく指導していれば良い。というのが教師の一般的な考えだろう。

 1年を無事にやり過ごすことを主目的にするなら、手のかからない部分に気を使うより、手のかかる部分が何か問題を起こさない限り、それなりに学級は運営される。それが学校だからである。

 一般的な手のかからないと思われている生徒は、不良たちのように学級担任に顔を覚えてもらいたいと考えている。生徒一人一人は、当たり前の生活を毎日過ごしているようでも、何かしら問題を抱えているものである。その問題を誰かに相談したいし、不良達に接するように自分たちにも同様に面倒を見て欲しいと考えているのだが、普通の教師は、上のようにその他大勢のグループを重要視していない。表面上目立った変化が無ければそれで問題が無いからである。

 そういう意味で、学校は、不良たちに退屈かもしれないが、一番資源が注がれているグループである。もし、不良というものが存在しなければ、そのエネルギーは、他の部分に注がれるのにと生徒たちは心の中で思っている。

 

 そして、その他大勢のグループは、大抵何の問題行動を起こさず卒業していく。それ成りに思い出も作るが、それなりに糞みたいな学生生活だったことに後で気付く。

 教師が神聖視されていた昔と違い、その行いは、簡単に情報化され周囲に拡散できる。それだけ透明性が上がったのだろうと思う。

 

 教師も神では無く、一人の人間である。年下のグループの中に大人が混じることで絶対視されてきたのだという事を、その中でもこれは無いという教師が昔からいたのだから、今の時代なら目も当てられない。

 やはり窓ガラスを割るのは、自分たちが不良の特別待遇では無く、特権扱いされないのが不満なのだろう。もう少し自分たちに関心を持たないと、もっと暴れるぞと宣言しているようなものである。

 それに対しては、日本全国の学校で同じ対応が求められる。同じ地域で別々の対応はしない方が得策である。もし、現在の義務教育に不備があるとしたら、そういった生徒たちに対応を他の生徒と同じようにすることを学校教師に求めることである。教師にその能力は無い。

 もう既に、荒れた学校の問題は、昭和の時代からあり、そろそろ何かの対応策を求めることが必要である。