朽ちること

 朝6時前から雨が降り始めた。気温も9度くらい。


 いつも通る、家の庭が荒れてきているのに気付いた。普段なら庭には雑草が生い茂ることは無く、きちんと手入れされている庭であった。当然、自分の知っている人が住んでいるわけでは無く、庭の様子を通りすがりに見る程度のものだった。

 更に少し進むと、傾いた塀がある家が有った、人は暮らしているようだが、塀の傾きを直す気配は無かった。そしてそのひび割れから雨水が染み込み、表面のコンクリートが剥げ落ち、その姿を変えていく。人が住んでいない訳ではなさそうであった。

 

 そして、数か月経つと、荒れていた庭の家に「売家」の看板が立ち、和風の庭だったところがすべて整地され土がむき出しとなっていた。また、もう一つの家は、傾いた塀が立て直され新しい塀に作り替えられていた。

 人に歴史ありとは良く言うが、建物にも当然歴史があり、それはやはり人の営みと密接にリンクしている。家の壁や塀も、時間と共に徐々に傷み、その姿を変える。しかし、そこに住む人が手入れをすることでその古さも味わいとなる。手入れされなければ、その傷みは徐々に建物や塀を崩壊させる。

 建物と人が同時に共存しなければ、やがて両者は共に滅び去る運命である。それは、自然の営みの中に組み込まれた仕組みでもある。だから、その変化を見ればそこに生活する人の様子が何となく想像できる。

 まだ、建物が再生されるうちはまだ街が生きている証拠でもある。朽ち果てた家が放置され、庭の手入れがなされない家が増えれば増えるほど、その街自体の活力が失われているという証拠でもある。

 

 そしてまた永遠というものは存在しない。この大地でさえ風雨に浸食され姿を変えていく。今暮らしているこの土地でさえ、4、500年前までは、うっそうとした原始林であり、火山灰に覆われた土地だった筈である。そこに、人が移り住み、森を開き、土地を平らにして住み始めたはずである。この先また1000年もすれば、この土地も深い森に戻っているかもしれない。