価値観

 曇り。気温も17度くらいと少し肌寒い。


 人間というものは、それぞれ持つ価値観が異なるものである。その価値観の違いは、普段同じ仕事をし、同じ場所で働いていても本当のところは判らないものである。

 人は、余程の事でない限り自分の価値観を表に出さない。それを出すのは、政治家や宗教活動家位なものだろうが、そのように価値感を表に出す立場にあってもきっと半分程度は表に出さないようにしているのではないだろうか。

 そして、それ以外の人間にとって自分の価値観を表に素直に出す人はほとんどいないだろう。そうやってバランスよく社会生活を送っている。

 価値観と書いてしまったが、その価値感という単語の意味は数多くあるだろう。物事の好き嫌いと言い換えられるし、或いは、広い意味での性格の一部でもあるだろう。

 では、本当に自分の価値観を体系化したものとして理解している人間がどれ程いるだろう。その違いに気付く人はどれほどいるだろう。ある人は、本当に浅い物しか持たず、それは本能的な好き嫌いで判断してしまう者もいるだろう。そしてその浅いが故、風向きにより考えは変化し、ある一定の考え方で物事を判断できないという人である。

 その反対は、自分の信念の中で行動し、そこから外れた部分では物事を判断しない人だろう。それは周りから頑固とみられるような人である。

 そしてその中間が、信念や思想は有るが、その場の雰囲気でそれを曲げる人である。このタイプが一番多いのではないだろうか。更に言えば、世界はこのタイプの人間で成り立っていると言って良い。

 そのため、いくらでも風向きが変われば、マスとしての集団の意思も変化してくるのは、どの国でも同じだろう。その風向きをある程度変えるのが指導者と呼ばれる人間だろう。大衆の価値感を自分の都合の良いように変えることができれば何でも思い通りに事を運べる。

 指導者の多くは、きっとそのような世界を作ることを夢見ているのだろう。そこにある意思は、自分の価値感を多くの人に強要することである。

 多くの人間は、その強要された価値感があたかも自分の意思であるかのように洗脳される。そこに生まれながらに持つ自己は存在しなくなる。

 この先、世界は、多様な価値観が存在しずらいものになるだろう。もし、お互いの価値観が異なればお互いに相手を滅ぼそうとするか自分の支配下に置こうとする。それが争いであり戦争である。そのお互いの価値間の違いは、個々の人間の価値間の違いでは無く、指導者と呼ばれる人間の価値観の違いの争いである。そこに個人がもつ価値観が入り込む隙間は無い。

 今でこそ、日本は多様な思想を表に出す自由が与えられている。しかし、何時かまた多様な価値観を認めない社会が訪れないとも限らないし、侵略という形で自分たちの価値観が取り上げられる時が来るかもしれない。

 

 それは、古来日本が、幾多の戦争の中で、支配者が変わり、その中で多くの事が上位下達の中で動いてきた歴史がある。今の自由の反動は、そういった形で揺り戻されるのが歴史である。