終戦記念日に思う

 曇り、湿度は非常に高い。これが北海道とはとても思えない。


 昨日は、終戦記念日であった。報道各局は、その話題を報じている。しかし、考えてみれば戦争が終わったのは、1945年である。その頃生まれた人間は、既に68歳になっているはずである。その年代は、既に社会人としては隠居の身の人が多い年齢である。

 そして日本にいる大多数の人間はその戦争が起きたことは知っているが、自分が直接見聞きしたことでは無く、間接的にその当時の事を聞き知った人である。

 そしてその戦争の経験者が居ないことからくる経験値の無さが日本の戦争に対する問題的が浅くなっている部分だと思う。過去の事を忘れることは人間にとって当たり前で、更に実体験もしていない人間が戦争を語ることの空虚さは否めない。

 まず、日本人の中に戦争経験者が居なくなったと同時に、いま日本を痛烈に批難している中国、韓国にも第2次世界大戦を経験した人間の存在はすくなくなり、その中でお互いの立場を美化した歴史が作られ始めている。それは過去の歴史の真の記憶が薄められ、自国の良い所だけを残した歴史が語られ続ければ、その時代認識は異なるのは当然である。中国、韓国の人間にとって日本人は卑劣で野蛮な行いをした国として記憶が刷り込まれてしまっているからである。

 いま日本のテレビで韓国ドラマが報じられ、韓国の古い時代の話が語られているが、決してあの当時あのような華美な服装はしていたはずはないのに、庶民までが普通の着物を着、そして生活していると架空の設定で見てしまえば、あの嘘が、未来の人間にとって現実の歴史と錯覚させてしまうだろう。

 そう意味で、日本の時代劇も、徐々に時代考証が怪しくなりかけているのも事実である。決してあのような選択したてのような着物を着ているはずもないし、あのような立派な建物も少なかったはずである。

 でも、その記憶が刷り込まれ続ければ、戦国から江戸時代の日本人は、綺麗な着物を着て、立派な建物に住んでいたと勘違いするかもしれない。

 そのようにして、徐々に色々な知識が織り交ざりお互いに誤解が生じるのも当然で、その誤解が悲劇を生む可能性も多分にある。

 そして一つの問題は、日本が戦後果たしてきた世界に向けての戦後補償の歴史が語られなさすぎということである。世界に向けて日本が行ってきた開発援助や、国連への拠出金について余りにも日本人らしく謙遜してきたせいか、世界の平和のために努力してきたことが何もなかったのように語られる。

 それが顕著なのは、中国と韓国なのかもしれない。日本人は、以心伝心というか、言葉にしなくとも情を感じてくれる、暗黙の了解という伝統があるため、これだけ援助したということを声高に語らない。その反対に、自分たちを卑下することは何処の国よりも旺盛に行う。そしてそれを実践しているのがマスコミの中の新聞社と言える。

 その新聞社の代表が、朝日新聞だろう。朝日新聞の中に流れている社風は、如何に日本政府の権威を引き下げるかに傾注してきた。それは、将来のために日本人の心に正義を植え付けようと努力した結果だった。しかし、日本が世界の先進国の仲間入りをしてからは、その報道が世界に流れることを知らなかった。

 正しい歴史を伝えることは必要である。その報道が権力に屈してはいけないのは当たり前なのだが、その報道姿勢自体、権威を引きずり落とすことに夢中になり過ぎ、その根底に流れる一つの理想である平和国家を作るために、なりふり構わず批難することが正しいという風潮に変わってしまった。

 今回の靖国神社問題の報道も過去から延々とA級戦犯の問題を取り上げ批難してきた。そひて朝日が望んでいたのは国立の戦没者慰霊の施設であった。しかし、その事は一向に実現しないばかりか、毎年同じ批難をしてきた。もし半世紀も続けるなら、その間に朝日自身で何故戦没者を慰霊する施設を作るための努力をしてこなかったのだろう。結局は、非難するためにだけ、色々日本の粗を探し、報道し他国から日本を批難できるようなネタを与え続けてきたのではないだろうか。もし一貫してそういった報道をするのなら、自分たちが主張することを実現させることも同時に行ってほしかったというのが率直な感想である。

 言いたい事だけを言うのならだれでもできるし、ただの酒飲みの口のようなものである。口先だけならだれもが総理大臣に成れるだろう。そういった口先だけの人間が嫌われるのを知らないはずはない。そういう意味で、朝日新聞の主張に空虚さを覚えるこの頃である。

 

 更に、朝日新聞が後援している真夏の炎天下で行われる高校野球。朝日が日頃批難している体罰と実体は同じである。高校生の夢と希望を逆手にとり、過酷な条件で試合をさせる。そして連投に次ぐ連投で投手生命を失ってもそれを美化して報道する。

 それと体罰を行い選手を全国大会に連れて行く監督の行為とどこが違うのだろうか、全国大会という餌をチラつかせ体罰を生徒に受け入れさすことを批難しているはずなのに、高校野球大会で優勝、或いは夢と言う餌をちらつかせて野球を行わせることにどんな違いがあるのだろうか。まさしく矛盾である。もし体罰を批難するのなら、高校野球は辞めるべきだろう。適切な時期に行うことが朝日新聞の日頃から主張している姿勢に合致するものだと思う。

 人間社会には、裏と表が必ず存在する。新聞でいえば本音と建前である。その本音の中で勝負せず建前だけの報道が自分たちの首を絞め続けていると思う。もし本当に信頼される新聞であろうとするなら、相手にだけ要求せず、自分たちの中から変えて行く必要性があるだろう。

 今回は、朝日新聞だけを批判したが、他の新聞社も似たり寄ったりである。自分達の考える能力を忘れ、捨てれをタイプのように終戦記念日を報じる姿勢に、きっと何らかのフォーマットが存在し、この日にはこの報道をするという伝統が存在する。そこにあるのは、非難すべき保守的な体質だと思うのだが、新聞社自らその報道の姿勢に対して何ら自己批判が無いというのも非常に気味が悪いということである。