容疑者

 晴れ、気温はマイナス9度。

 昨日の夜から降り積もった雪はひざ下くらいに達した。朝早起きし、まだ夜も明けぬうちから除雪したが、あの静けさの中で作業を行っていると自分の息遣いしか聞こえない。


 アクリフーズの件、容疑者が逮捕されたが、その個人情報の漏れ具合は相当なものである。写真、隣近所の住民、同僚と出るは出るはである。

 本当に何らかの権力が有る無でこうも違うのかという社会の恐ろしさを見る思いである。確かに容疑者の行為は、多くの人を無差別に狙った卑劣な犯行だったかもしれない。自分が当事者だったら怒りを覚え犯人がそばにいればコテンパンにしてやりたいと思っただろう。

 しかし、その個人情報の暴露と犯罪の思さは違うだろうと思う。個人情報をいくら暴いたところで、彼の犯行に及んだ気持ちを知ることは無い。

 マスコミは、今彼の犯行の動機を待遇の不満に持っていきたいと考えている節がある。更に彼が他の人とどれだけ違い、普通の人の犯行では無いと強調したいようである。

 その情報が、コスプレでありスクーターを改造したというものである。だけれどもそれは、誰もかれもが行っている事ではないが、社会的にそういう趣向を持ったグループが存在し、普通に受け入れられている。この犯行の動機とは成りえない。待遇の不満にしても、その程度で無差別に農薬を冷凍食品に振り掛けることをするだろうか。

 普通なら、仕事を辞めるだろう。仕事を辞めない理由は、何だったのだろう。

 今、マスコミが垂れ流している情報は、事件の真相を暴くというものでは無く、興味本位の情報を流し、見たり読んだりしている人たちを納得させようとしているだけだろう。

 きっと、マスコミに勤めている人たちは、それが自分たちの飯の種だから、視聴者、購読者が望んでいるからと答えるのだろう。しかし、そこに浮かび上がるのは、自分たちの都合の良い人間の情報を垂れ流し、肝心の情報は知ってても流さない、裏で何かの取引に使うようなものとして懐にしまうような、ただの情報屋として生きているという自覚は無いのだろうか。




 世間に同時期に流れる情報の太さは一定である。それを超える情報は流れない。そのため、情報が有り過ぎるときは、流れずに消えてしまうことも多い。情報が少ない時は、過去のどうでも良いニュースが自然と流れてくる。その情報の多い少ないをコントロールするのがインターネットの役割だった筈であるが、今やネットも検索システムも、検索リストの操作や広告で溢れかえり、本来なら見つかる情報も埋もれてしまうようになってしまった。

 情報に関しては、今後も収取選択が自動で行われ、望む人に本当に必要な情報は渡されず、誰かの都合の良い情報のみが渡されるようになるのだろう。