目に見えるもの

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 人は、自分で見たものは信じるものである。しかし、それは手品のような眼にもとまらない早さとか、錯覚で騙されるように、不確かなものである。

 しかし、人はそういった不思議な現象を信じようとする。例えば、インチキ霊媒師が、世界の偉人を呼び出した時、日本語を知らないはずの偉人が日本語をペラペラ喋っていたとしても、それを信じて見ていればそのことを忘れてしまうものだ。

 人の性格もそうだ。例えば自分は弱虫で泣き虫であると自覚していても、自分のその弱虫で泣き虫なところを見られていなければ、他人は、その人の事を強くて頼れる人間だと錯覚している場合もある。なぜそういった事が起きるかと言えば、たまたま自分がとった行動がその相手に勇気ある人、イコール頼れる人という認識がなされていたからというのがある。

 その人の全てを見透かすことはできない。長年連れ添った夫婦であっても、相手の性格や行動を全て把握しているわけでは無い。

 それは例えば、犯罪を犯した犯人の妻が、あの人はそういう事をする人では無いと答えるような時である。本当に彼女が知っている夫は、真面目でそういった犯罪をする人でないと信じているからである。

 そういった妻でも知りえない別な性格を隠したまま生活することは可能である。それは、両親や兄弟であってもそうである。

 人が見ているのは、あくまでもその人の日に当たる部分である。その知らない部分を噂に聞いたりすると、本当に驚いたりする。それは、自分が見て知った人物像を更に自分の中で増幅させ、見ていないことまでも塗り重ねて記憶を形作るからである。

 まさしく、自分の目は正確であると信じていても、それは目に映る部分しか目に入っていないということである。知らないところで起きたことは当然知らないし、入るのは他人のあやふやな情報だけである。

 上に目に入った物だけを信じると書いたが、そうでもない時もある。その一つがオレオレ詐欺だろう。あれの手口は、電話という音声だけである。

 人は、目にしたものしか信じないはずなのに何故、電話だけ会話だけで大金を振り込んだり、渡したりするのだろうか?

 その答えの一つは、宗教だと思う。例えば、聖書の中でキリストが奇跡を起こしたと書いてある。本当にその奇跡を現代人が目にすることはできない。同時代に生きてはいないからである。

 しかし、キリストが生きていた時、その奇跡的な現象を見た人がいてその事実を書きとめ、それが聖書に載っていると信じている人が大勢いる。

 自分が実際目にしていないのに、有名で誰もが知っているような事、イコール真実と思わされているのである。そして、それが自分では見てもいないはずなのに、実際に自分の見たものと誤認識しているのである。それは、オレオレ詐欺に通じている所がある。

 電話で、相手の顔が見えず声だけが人を見分ける術である。その声が、自分の名前を名乗らずとも易々と自分の身内だと信じるのは何故なのか?

 それは、自分の記憶の中に刷り込まれたその声の持ち主は、誰もが知っている人であり、嘘をつくはずのない相手だと誤認識しているからである。


 最初に書いたように、自分が知っている知識は、世界にあふれる情報と比べれば埃のようなものである。その情報を屈指して目に見えるものを理解しようとする。更に相手が声だけの存在であっても、自分の記憶の中にある僅かな情報を頼りにその人を理解しようとする。

 

 まさしく、氷山の一角を見て、その隠れた部分を想像に入れていない。人を信頼するというのは、一種の賭けに等しい。信じれば裏切られることも有るし、相手を低評価していたにも係らずその相手に助けられることも有る。

 人は本当には理解できないという事を自覚していなければ相手を評価することなどできず、その事に苦しむことにもなるのである。

 人は、日の当たるところを一生懸命見るが、実は物事の本質は、その日の当たらないところに隠れていることが多い。