冬季オリンピック

 晴れ、気温はマイナス16度と久々に冷え込んだ。

 昨日、ソチオリンピックは閉会したのだが、今回は自分にとって本当に興味を失った大会であった。

 オリンピックは、4年毎に大会が開かれるもので、その開催都市は持ち回りである。更に言えば北半球でも雪が多い地域でなければできない大会で、世界各国が参加できる土壌は無く、夏季オリンピックと比較すれば参加国は多くない。

 更に今や、冬のスポーツをする環境が狭められ、この競技ができるのは恵まれた環境で生活している国あるいは人間しかできない。まあ、オリンピックそのものがエリートスポーツなので仕方は無い。

 地球温暖化の影響で今後益々冬の競技ができる環境でなくなってきている。冬の環境が無くなれば、人工で雪を降らせるか、雪があるところへ選手は行かなければならなくなる。そうなれば、そういった所にわざわざ見物に行く人は、ある程度裕福でなければならないのは、格差社会のスポーツである。

 夏季オリンピックであれば、何らかのスポーツ能力が有れば、その格差を飛び越えて参加することができるが、冬季オリンピックがそのレベルに到達するには、何らかの金銭的裏付けやスポンサーのバックアップが必要になる。それが格差を生む土壌でもある。

 そして今回は、オリンピック放送そのものが低調であった。民放もオリンピックよりも更に面白くない番組を放送することを選んだ。

 その理由の一つは、やはりテレビの存在を抜きにしては語れない。冬季オリンピックの初期は、マイナーだった大会を如何に巨大化するかをテレビ放送に掛けた。そして初期のアマチュア精神を捨てた大会が始まると、それをコンテンツとして利用しようとするテレビ業界が神輿を担ぎ、徐々に大会は巨大化していく。そして、ついには大会そのものがテレビ業界より上の立場に立つ時がきたのである。それは、放映権料の巨額化という問題を引き起こしたのである。

 最初に利用しようとしたテレビ業界が、いつの間にかそのシステムが軌道にのると、それを上手く利用して利益を得ようとするグループの台頭を許したともいえる。その力関係は、冬季オリンピックが魅力的なコンテンツであれば有る程優位であった。

 そして、その魅力を伸ばすために色々な競技が加わり、見るものを楽し増せることに力を注ぐ、その方向に進むために、色々な人間が係ることで利権が発生し、私腹を肥やす人間が増えすぎてしまった。それが今の現状である。

 ハッキリ言ってしまえば、冬のオリンピックは既に斜陽を迎えたと言って良いだろう。テレビは冬のオリンピックを見限り始めた。テレビ業界そのものが視聴者から見限られたという事もある。更に、冬季オリンピックを開催しようという国が夏季オリンピックのように何回も後まで立候補しようという国が減ってしまった。そろそろ世界から見放されつつある。

 次回は韓国らしいが、冬季オリンピックの終焉を迎える大会かもしれない。世界と言いながら世界の国々が参加できないオリンピックは、本来のオリンピックでは無かったのかもしれない。