原発

 晴れ、既に気温は20度を超えている。今日も真夏日に成りそうである。


引用 毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/20140717k0000m040063000c.html) 

原子力規制委員会は16日、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)について、「新規制基準に適合している」とする審査書案を定例会で了承した。今後、30日間の意見公募などを経て審査書を決定する。川内1、2号機は、東京電力福島第1原発事故の教訓を踏まえ、安全対策を強化した新規制基準をクリアする初の原発となる。地元同意手続きや設備の使用前検査なども必要となるため、再稼働は10月以降になる見通しだ。

 ただ、規制委は「基準に適合しているかどうかを審査するだけで、稼働させるかどうかには関与しない」との姿勢を崩さず、政府も「稼働させる政治判断はしない」との立場だ。実質的に再稼働の判断は電力会社と立地自治体に委ねられ、国策でもある原発が、国の責任があいまいなまま稼働する可能性もある。

 このままいけば、秋以降川内原発は稼働することが事実上決まった。再稼働に於いて地震国日本の現状を鑑みて安全と判断したと思ったら、規制委員長自ら「基準への適合は審査したが、安全だとは私は言わない。これがゴールではないので、(九電は)努力していく必要がある」と発言したらしい。

 この発言がどのような状況で発言されたものか文脈からは捕えられない。ただ端に、福島原発のような想定していない災害が発生した場合、或いは未知の危険性についてまでも安全を保障できるものでは無いという意味で語られたように感じる。

 規制委員会そのものが専門職の集まりで無く、専門家の集まりである。もともと研究者という立場であれば、予想以外のことが起こる確率はどんな事象でも必ず起きうる前提で研究をする。だから統計学という手法で99.9%、99.99%の確率で正しい論文で書く。

 

 科学の分野で100%の有無を証明することは困難である。その論理でいえば、原発稼働の安全性を科学者が100%安全だというはずはない。そういった理論が後に破綻することは、科学の世界では当たり前だからである。

 100%の安全は無い。誰もが証明できないからである。まさしく100%安全に近づくように日々努力しなければならないというのは正論である。

 そういう意味で、この記事が白黒ハッキリつけるという事でなされた一般的な考えの線上で読まれたとしたら田中委員長は可哀そうだと思う。


 この記事に書いてあるように、原子力規制委員会は、原発稼働のための基準を全て見なしているかを判断するだけと決められている。基準が将来の想定内の事故で決められており、想定外の事故に対しては何ら基準が無い状態で審査するとすれば、想定内の災害について安全性が保たれる基準を満たされていると判断したに過ぎない。

 想定外の事故に対しては、この記事に書かれているように国が保証するものでは無く、電力会社、地域住民が判断するものらしい。この部分は自分も初めて知った。

 何故なら、国にはエネルギー政策というものが有り、その政策に沿って国内の企業がエネルギーを供給するように努めるわけである。原子力発電は重要な国の政策の一部であるから、当然国はエネルギー政策の範囲外であれば当然規制する立場にある。

 原発の再稼働を認める認めないを決めるのは一企業とその周辺住民だけというのも自由主義経済、民主主義の器の中で自由に決められるというのも驚きである。

 福島で今まで経験したことのない大事故を起こし、その稼働の責任は政策を決めた国では無く、一企業の責任に帰するという今までの流れを考えれば当然の事なのだろうが、原発を推進してきた国の責任が余りにもなさすぎるのも驚きである。


 この問題は、今までの国の在り方を国民に説いてきた安倍内閣にとって、集団的自衛権問題に続き内閣の運命を左右する事案となった。

 この先、解散総選挙に打って出れば自民党惨敗の可能性が出てきた。空気を読むところと読まない所がある安倍内閣にとって、支持率が高かったことで何でもできると思っていた節があるが、ここに来てその安定した土台が砂上にあるという事を気付かなければならないだろう。