秋分の日

 晴れ、今日は秋分の日である。秋の境目という言葉は、二十四節気の中で一番北海道の季節に合致している。本州ならまだ残暑という雰囲気が残っているが、北海道はこの日を境に急に冷え込みが厳しくなり、所によっては霜柱が観測されるようになる。そして山々の木々は、一雨ごとに紅葉を増していく。そうした季節の移ろいを感じさせるそんな日である。

 今年の1月、一年はあっという間という事を書いた気がする。その通りに何となく1年の残りも3か月ちょっとという月に名てしまった。何かをしようとするには一年は、短すぎる。結末を目前にして何かをするには準備期間が足りなさすぎる。それは、人生の晩年に似たようなもので、残りの年月を指折り数えている余裕は無くなる。

 あの日に変えれるならと過去を振り返ることが多くなり、未来に何をしようという気がしなくなるのもこの時期である。そんな風な思いに至るのもこの季節の成せる業かもしれない。


 そういえば、「命短し恋せよ乙女」一節があった。少しググってみると、この節は、大正時代に作られた「ゴンドラの唄」という歌の一節であった。それを作詞したのは、吉井勇という人らしいが、そのルーツをたどるとアンデルセンの「即興詩人」という小説を森鴎外が訳し、その中のゴンドラ乗りが謳う歌として文語体で訳されたものを、現代語に戻しアレンジしたものらしい。

 元々はこんな風な訳だったらしい。

「朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少なく、汝の血の猶熱き間に」

 一見、男性が別の男性にアドバイスをしているように感じるが、何故、女性に対するアドバイスに成ったかというと、この歌が最初に使われたのは、『その前夜』という劇の劇中かとして使われたからである。

 もともと吉井勇という人は、歌人で脚本家だった。

 物語の中でこの歌は、エレーナというロシア貴族の令嬢とブルガリア独立運動の志士インサーロフが駆け落ちして辿りついたベネチアのホテルの部屋の窓下でゴンドラ乗りが歌うものだった。

 だから、物語上女性に勇気を与えるために使われたと言って良い。

引用 Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/ゴンドラの唄) 

いのち短し 恋せよ乙女

あかき唇 あせぬ間に

熱き血潮の 冷えぬ間に

明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女

いざ手をとりて かの舟に

いざ燃ゆる頬を 君が頬に

ここには誰れも 来ぬものを

いのち短し 恋せよ乙女

波にただよう 舟のよに

君が柔わ手を 我が肩に

ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ乙女

黒髪の色 褪せぬ間に

心のほのお 消えぬ間に

今日はふたたび 来ぬものを

 秋の終わりを迎える秋分の日に、ここまで辿りついてしまった。まさしく、残りの時間を恋に生きるもよし、また別な目標に向かって生きるのもありだろうと思う。