11月1日から連想する話

 靄、気温は2度。朝方は冷え込むようになってきている。

 今日は11月1日と一並びの日である。そして今月は11日に再度1並びになる。年間で同じぞろ目が3個に成るのは、後、1月11日と2月22日だけである。何となく数字が揃うと得した気分になる。だからと言って嬉しいことが何かあるわけでは無い。(4個並ぶのは11月11日)

 数字というものは面白い。数学でその数字の成り立ちを証明する難問が数多く存在し、それが説かれて公式のようなものになって行く。

 その証明方法は、簡単なようで簡単では無いとかくと語弊がある、どの問題でも簡単では無いというのが正しい表現だろう。

 こういった難問を解く数学者は、ある意味孤独である。何故なら何かをしながらも数字が頭の中を駆け巡るとしたら、誰かと話をしている最中でも別の脳組織で解を求めていれば会話は上の空となる。

 

 そういった数学者の話を聞くにつれ平凡で良かったと思う。もし、数学と言う学問に捕らわれていたら世界は別なものに見えていただろう。

 更に、何故数学者は難問を解こうとするのか?一般的な生活をしていくうえで、難解な問題の解を求める必要性は何処にもない。それに没頭する時間があるなら日々の糧を求める活動をする方がよっぽど社会的である。

 それを職業として行っているならまだしも、その職さえも無く、そういった活動ができる人間は稀有な存在である。誰かに生活を支えてもらう必要がある。

 中世のヨーロッパなら、身分が貴族であったり、だれかパトロンが付き生活を援助してもらうという事が有ったが、現代では、そういった学問に集中して取り込める身分になるのは特別な存在に違いない。多くの数学者は、学者として教壇に立つなり生活のために何らかの仕事を行う必要があるだろう。


 「111」に話は戻る。111はどんな数字なのだろう。例えば、この数字の約数は?と問われ簡単に答えを出せる人がいるだろうか?

 その約数を持つ数字の中に、1と自分自身以外に約数が無いものを素数と呼ぶ。では111は素数と呼べるだろうか。この程度の桁数ならしらみつぶしに数字を上げ実際に割ってみることで答えを求めることができる。

 最初は、2の数字で割ってみると55.5という答えを求めることができる。という事は、割るという性格上55を超える約数は存在しないということになる。では3で割ると37と割り切れる。

 という事で、111は、3と37という約数を持ち、3と37自体が素数であるのでこれ以外の約数を持たないということが判る。そして結論は素数では無い。

 この様に素数であるかないかを求めるには、実際にその数字を素数で割っていくことで証明される。1を除いて、最初の素数である2から3,5,7・・・というように順番に調べようとする数字を割ることで求められる。

 解を求めるとき最初で2で割って出た数以上の数字が約数に無いことが判るため、その数字の間に約数は隠れているので、その間の素数で割って行けば良い。

 しかし、その数字の桁数が増える毎に徐々に割らななければならない数字は増えて行く。そして手計算では時間が掛かるようになるため、コンピューターを使用するわけである。

 素数を考え始めたのは古代ギリシャ人と言われている。当然古代ギリシャに今のようなPCは存在しなく、手と頭を使い素数を探しつづけたに違いない。

 そして手計算でも求められた最大の数は、「2の127乗 - 1 」という数字である。エドゥアール・リュカという数学者が19年掛けて証明した。

 人間の能力は偉大だが、それを解くのに使用する時間は人間にとって長い。