事件を思考するlこと

 晴れ、マイナス13度。

 ISILの人質殺害事件だが、例えば同様な事件が国内で起きた場合どうなるだろう。日本国内で人質を誘拐し、インターネット上で身代金要求、死刑囚との身柄引換を要求してきたとしよう。

 その場合、世論は身代金と死刑囚を交換することを許すだろうか?

 身代金は、200億円で、死刑囚はテロリストの幹部で更に爆弾魔である。刑務所に入った理由も、多くの人間を爆弾で殺してきた罪だったとする。

 もし、身代金と人質の交換に応じればそのお金で武器や爆弾を大量に仕入れ、国内の色々な場所でテロ事件が頻発する恐れがある。

 さてこの場合だと判断は変わるのだろうか?

 人質は、90過ぎの男性だった場合、人質は40歳の女性だった場合、人質が5歳の男の子だった場合。更に90歳の男性は大会社の会長、女性は人気女優、子供は政治家の子、或いは、男性は末期がんの男性、女性は近所の普通のおばちゃん、子供は普通の子供。それぞれで助ける基準は変わるのだろうか?

 

 ある人は、国内と国外では事情が違う、日本は平和だし中東は危険だ、基準が変わるのは当たり前である言い。ある人は、世界のどこにいても日本人は平等に扱われるべきだと訴える。

 基準は変わるのか変わらないのか?

 今回の人質事件で言えば、最初のスタートラインから論点が違うように思える。同じスタートラインに立ち議論を始めなければならないことなのにその議論を許さない状況がある。

 様々な意見がありそれを主張する人は、自分たちの意見が正しいという前提で話を進めるが、最初に考える無ければならないのは、誘拐された人間がどのような人物だとしても同じ基準でスタートするのか、それとも人質の生まれや素性で対応を変えていくものか問われなければならないだろう。

 基準は変えないとすると、いかなる人物であろうとも同じ対応を取る前提で話は始まるし、その人物により変わるなら、その要件を決める手続きをしなければならない。

 しかし、今までの例を見ても状況に応じて議論は変わる。その一番手がやはりマスコミだろう。社会の情勢が変化すれば変わるのは当たり前だが、自分達が仕入れた情報を意図的に流すことで世論を操作しようとする。その情報が正しい正しくないに係らず自分たちの利益につながるならば平気で流すことがある。


 そういった事も起き得るのが現実である。今回も自分たちの主張が正しいという事を証明するために、明らかに情報操作しているかのように記事を書く。明らかに自分たちの主張に反対する情報は、途切れがちである。

 そのような中で、正しい判断を如何に下すかということなのである。その中で思考停止してはならないと思う。