透明な歳月の光の件

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引用 産経新聞http://www.sankei.com/life/news/150215/lif1502150017-n1.html

産経新聞に掲載された作家、曽野綾子氏のコラムをめぐり、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使は14日までに、産経新聞社宛てに抗議文を送付した。

 ペコ大使が問題視しているのは、2月11日付で掲載されたコラム「曽野綾子の透明な歳月の光」。「労働力不足と移民」と題した中で、介護の労働移民について条件付きでの受け入れを提示したほか、南アフリカで人種差別が廃止されても生活習慣の違いから分かれて住むようになった例を挙げ、住まいは別にした方がいいとの考えを述べた。

 これについてペコ大使は「アパルトヘイト(人種隔離)を許容し、美化した。行き過ぎた、恥ずべき提案」と指摘。アパルトヘイトの歴史をひもとき、「政策は人道に対する犯罪。21世紀において正当化されるべきではなく、世界中のどの国でも、肌の色やほかの分類基準によって他者を差別してはならない」としている。

 NPO法人「アフリカ日本協議会」も産経新聞社と曽野氏に抗議している。

 曽野綾子氏「私は文章の中でアパルトヘイト政策を日本で行うよう提唱してなどいません。生活習慣の違う人間が一緒に住むことは難しい、という個人の経験を書いているだけです」

 小林毅産経新聞執行役員東京編集局長 「当該記事は曽野綾子氏の常設コラムで、曽野氏ご本人の意見として掲載しました。コラムについてさまざまなご意見があるのは当然のことと考えております。産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」

 数日前に炎上しその後もまだ後を引いているこの問題、いまさらかもしれないが気に成ったので書いておくことにした。

 ただし、このコラムは、産経新聞を購読していなければ読めない内容なので、ネット上に流れる情報だけでは判断が付かないため、これもネット上に全文引用した記事があったので読んでみた。

 コラムだけあってそれ程長文では無く、数分で読める代物である。コラムの内容を要約および引用してみる。

※引用部分は「」とした。

書きだしは、

「最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい」

 と始まり、イスラム国の話題なのかと思うと介護の問題になる。それを要約すると介護労働力に外国人移民を受け入れるべきということである。

そしてそれに続き

「外国人を理解するために、居住を共にするということは至難の業だ。

もう20~30年も前に、南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに、分けて住む方がいい、と思うようになった。」となる。

 問題となっている部分はこの部分から始まる。そして最後にこう締めくくられる。

爾来、私は言っている。

「人間は、事業も研究も運動も何もかも、一緒にやれる。しかし、居住だけは別にした方がいい」

 例えば、この話を内輪の中で話したとしたら何の問題の無い話だったと思う。もしかしたら、多くの人がこれに勝る差別的な発言を行っている可能性がある。

 それが許される範囲かそうでないかは、内輪の中の問題なので誰も文句は言わないし、そもそもそういったグループ内で話される許された範囲であると思う。

 このコラムが問題視されたのは何故か?

 1.新聞という今では情報の拡散力が弱まっている媒体であるが、一定数の人に読まれる可能性があり、そこから産経新聞を取っていない人にも情報が拡散するところで発信したこと。

 2.外国人労働者の話を持ち出し、そのことについて自分は許容していると前置きしながら次の文章が南アフリカの話だったこと。

 3.南アフリカの今は無いアパルトヘイト政策(文中にアパルトヘイトという言葉は無くそれを想起させる表現がある)をそこに絡めたこと。

 いうなれば発火させるにふさわしい燃料を積んだコラムが出来上がったことである。作家として表現の自由が保障されているのは言うまでもない。反対意見が有ろうが、現にイスラム教に対する風刺画が表現の自由問題で論争を呼んでいるが、多くの文化人と言われる人が表現の自由を訴えている。

 その点でいえば、いかなる反対意見が有ろうが自分の意見を述べることに問題は生じないだろう。そういった意見を受け入れてこその表現の自由だろう。

 やはりこの問題で引っ掛かるのは、何といっても今では南アフリカでは無くなった人種差別政策が現時点でもあると誤解される点だろう。

 

 居住地の住み分けについて考える例として南アフリカの例を上げなければこんな騒動は起きなかった。もし自分がこのコラムを校正するとしたら、南アフリカという名前を出さずに文章を作るか、この話題を別な話題に置き換える。

 

 コラムの位置付けが、内輪話を載せても構わないものだとしたら受け入れられる部分もある。例えば新聞の読者欄などと同じ位置付けで考えるならばである。

 そのコラムの位置付けが、新聞社の方針に賛同する意見を載せる場所、或いは読むものが産経新聞はこういった発言を認めていると思わせるような場所なら新聞社の責任は大きい。

 その辺りの位置付けが、自分は産経新聞の購読者で無いため難しい部分はある。

 パリで起きたテロ事件に端を発して、表現の自由を制限することに対して反対する意見があり、更に過度な表現に対して規制を求める意見もあったはず。そういった色々な意見を発表することで、多種多様な世界を理解することに成る。

 

 このコラムの中に差別的表現があるのならそれは撤回すべきだろうが、その意見を封じ込める、或いはやり込めることに意義は無い。何故なら相容れない意見を持つものを説得させることの困難さは、多くの人が感じている事だからである。

 そういった多種多様な意見をお互いに封じ込めるような国家では無いことに幸せを感じるべきなのだと思う。

 

 どこかの国では、多種多様な意見があることを表に出すことが許されなく、独裁者が決めた意見が個人に優先する。それと比べたら遥かに良い。

 また異なる意見に対して反論する場合も、やはりそれなりのやり方があり、過去の経歴や、はたまた安倍総理を引き合いに出して個人攻撃をするのもはしたないと思う。