マスコミ

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 マスコミの報道姿勢について、こんなところで意見を言ってもという根本的な問題もあるが書かずにいられないので書いておく。

 函館の行方不明になった大和君が退院したようで何よりだが、病院の前に報道陣が大勢詰めかけて何やら大物俳優が来日したような騒ぎである。今回の原因は、親のしつけもそうだが、大和君の行動にあったわけで英雄的行動もしていないのにマスコミの都合で祭り上げているようで気持ち悪い。

 本来なら本人が猛省すべきところなのにである。そんなことに血道をあげて報道するより日本にとって本質的な問題は別にあるだろうということである。

 今なら、来年4月に予定していた消費税増税が取りやめになりそれによって財源を確保しようとしていた社会保障費の足りない分はどこから持ってくるのか、東京オリンピックの誘致に絡んで招致委員会に本当に不正は無かったのか、パナマ文書によって明らかにされた高額所得者の租税回避の問題の追及はどうなったのか。甘利元大臣の口利きの問題、舛添氏の政治資金を発端とする政治資金のあり方の問題。

 追及すべき大きなことはまだ原因究明せずに残っている。それを地道に追及することが本来のマスコミの仕事ではないかと思う。芸能人の不倫を追いかけ日中の時間帯に垂れ流し、公共の電波を無駄遣いする。

 そんなことをするのに電波を割り当てるなら停波したほうがましである。もし放送する材料が無ければ放送を停止して砂嵐でも流していればよい。時間とエネルギーの無駄である。

 高度経済成長期、総中流社会と呼ばれた頃が懐かしい。それからバブルが訪れバブルが崩壊したころから大きく日本社会の構造が変化した。お金が全てであり売れることが目的で日本社会に何も還元せずとも良いという風潮から、金持ちが全てであるという考えが浸透した。

 そして、徐々に富める者と貧しいものに差が大きくなり、徐々に権力は一部のものに有利なようになってしまった。そしてその権力にすり寄るのがマスコミの性である。幾ら反権力といったところで自分たちの食い扶持が得られないと知ったら、大概の人間は簡単に信念を曲げる。それが楽だからである。食い扶持が得られ権力の意のままに報道を規制していれば誰からも圧力を受けずに済むからである。

 しかし、その権力にすり寄ることで利益を得る仕組みを作り上げてしまったら最後、後戻りすることは許されなくなる。それが今の状態である。今まで甘い汁を吸っていた影響から、本当に追及すべきことを遠慮してしまう。上からの命令もないのに勝手に判断し逆らわない自主規制を行ってしまう。既に今のマスコミは権力の犬状態である。

 この先もマスコミの姿勢は変わらずより体制寄りになって行くだろう。表面上は報道の自由を口にするが、既に報道の自由に対する自己規制は進行中である。マスコミの唯一の特権である報道の自由を自ら失うときが直ぐそこに来ている。