人の命

 曇り、気温は19度。

 重度障碍者の殺人や入院患者が消毒液を入れた点滴で亡くなるなど嫌なニュースが続いている。

 犯人に共通していると思われるのは、自分が恰も神になったつもりで人の命の長さを決めていることである。それは一種の精神的な病が表に出て行動してしまったと思わざる負えない。

 人は誰しも人を憎んだり呪ったりするが実際の行動を起こす前に理性という歯止めが利く。だから、これだけの事件の数で住んでいるのだろうと思う。もしそのタガが外れるようなことがあれば、国中で殺し合いが起こることになる。

 本来ならば他人の命は、誰も介入できないというのが原則ではならなくてはならない。しかし、それは嘘である。

 身近でいえば交通事故などは、完全に他人の命の長さに影響を与える。自動車という凶器を不注意あるいは飲酒などの行為で運転し事故を起こす確率を増やしたうえで行動する時などすでにその時点で人を殺す可能性が高くなる。

 もう一つは、戦争である。ミサイルの発射ボタン、爆撃機での爆弾投下などそれを行った時点で多くの人の命が奪われることが分かっていながら人は行動する。ボタンを押さなければ死なずに済んだ人たちの命を奪っているわけである。

 テロリストもそうである。自分たちの主義主張と反するからと言って多くの人の命を犠牲にしようとする。そこにあるのは人の命は虫と同じということである。自分たちにうるさく付きまとい血を吸う蚊を手のひらで叩いて潰すと同じである。

 本来の人間は、タガが外れてしまえば動物と同じように行動する。自分の身を守るためなら相手を殺すことを厭わない。そこにあるのは生きるか死ぬかの世界である。

 話は最初に戻るが、上記の犯人の思いを推し量るに人を要不要の範囲で分別できると考えていると同時に少しの憐みの感情で自分の行動を正当化している。この先何年も普通の人としての生活ができなければこの世に存在する意義は無いと考えていることだろう。

 しかし、これは豊かな恵まれた社会にいる者たちに対する永遠の命題だと思われる。いつまでもこのような豊かな社会が続けば良いが、それが続けることができなかったときに試される話でもある。

 最初に他人の人生を決めることができないと書いたが、それは、そういったことを許容できる社会があって初めて実現可能である。皆が貧しく社会資本も乏しい社会に暮らしている場合、そういった選択が自然となされていく。

 社会が豊かであればそんなことは考えずに済む。人は平等に健康で長生きする権利があると主張すれば許されるからである。