人間の浅ましさ

 曇り、夜中雨が降っていた。気温は19度。

 今朝6時ごろ一斉にスマホとテレビが警報を発した。最初は地震かと思ったが、そうではなく北朝鮮のミサイル発射だった。きっとあの時間に大勢の人が目を覚ましただろう。

 北朝鮮のミサイル発射もそろそろと思っていたがグアム島は避けて北海道の沖合に打ち込んだ形である。普通なら漁船が操業している可能性のある地域である。その警戒をせずにミサイル発射するというのは言語道断である。とはいっても相手にこの気持ちが通じるわけもない。

 金正恩の行動は、小学生に何かおもちゃの武器を買い与えた時と同じである。(それは大人でも同じだと思うが)やはり望んで手に入れたものならその威力を試したくなるのは当然で、ミサイルもその程度の考えで実験しているのであろう。しかし、周辺、特に日本にとっては被害を受ける可能性があるだけに許されるものではない。

 しかし、これは校内暴力が吹き荒れた時代、良く言えば平和主義者の教師、悪く言えばことなかれ主義の教師が何も対応できず、3年間耐え忍ぼうとしたことを思い出す。精神的にいかれた奴に普通の生徒に対する指導をしても無力であることを悟り、見て見ぬふりをする。それが却って相手を増長させ教師が自分に対してどのような行動を取るのかを冷静な目で見ているのである。

 暴力を肯定している者にとって平和主義者ほど扱いやすいものは無い。徹底的に無抵抗無服従で対応するならまだしも、脅しに対して服従するような平和主義者ほど暴力に飼いならされてしまう。平和を唱えれば相手も同じ土俵に上がることを期待しているのだろうが、それは間違いである。彼らのやっていることは、えせ平和主義というものである。えせはえせ何もそこには残らない。

 暴力に平和主義者が勝つ方法は、脅しに対して従わないということである。相手が平和主義者を根絶やしにしない限り彼らの勝利は無いからである。その代り平和主義者にとって犠牲は多大にあるだろう。平和主義者はそれを覚悟して挑まなければならない。

 しかし、その多くの犠牲を目にすればやはり暴力に対して暴力を用いることが人間の選択肢に入ってくる。例えば今の日本でも犯罪であっても時には正当防衛というものがあり、同じ犯罪でも許される制度を日本人は作っているのである。

 人間の中にこういう感情がある限り、暴力に対して暴力で抵抗することを是とすることは普通であり、それがある限り人間と人間の間に常に争いがおこり続けてきたのである。

 達観とは言わないが、人と人との争いは必ず起こりそれを根絶することは不可能であるということである。米ソ冷戦が終わりを告げた時、世界に一時の平和が訪れた時が有ったが、それも長くは続かなかった。この先もずーと遠い未来も人類が生き残っている間争いは終わらないのだろう。