中学教師の犯罪

 曇り、気温は10度。雨が降りそうな陽気だが、これから晴れていくらしい。

 ゴールデンウイーク中の平日は、何となく気が重い。休み過ぎたというのもあるし、色々なところに出かけて体力を消耗したということもある。

引用 毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20180501/k00/00m/040/029000c) 

10代の少女にみだらな行為をしたとして、福島県警会津若松署は30日、福島県須賀川市千日堂、市立第二中学校教諭、川崎貴裕容疑者(23)を県青少年健全育成条例違反容疑で逮捕した。容疑を認めているという。

 教師は聖職と呼んでいた時代があった。それも昔のことである。自分の小学生や中学生時代の教師も今思い起こせば一人の人間でものを教える師ではなかったなと考えるようになった。

 そう考えるようになったのはそれ程昔ではない。実は、自分は小学生時代の教師を見ていた頃は、教師をやっている人は純粋で真面目な人間がやっているのだと信じていた。少なくと小学生の時の教師は、そんな不真面目なことをする人間はいないと思っていた。

 だから教師に叱られて嫌な思いをしたとしても自分が悪いのだと思っていたが、そうではないのだと今頃気付いたわけである。中学校に入るとさすがに子供だった自分も変な教師がいるなと感じていたが、更に高校になると一人の大人と見ていたのだが、何故か小学校の教師は人格者が多かったと自分なりに勘違いしていたのである。

 実際は、今の自分が考えるように子供を見て、ひとりひとりの将来を考えるとなるようにしかならないとあきらめに似た感情を抱いていたのだろうと思う。

 毎年毎年、多いときは40人以上の生徒を教え面倒を見るのだから、それなりに手を抜かないとやってやれないと思うのは真実である。あなたにそれができますか問われると、今の自分にそんなことをこなす気力などない。先生をやれと言われれば丁寧にお断りするところである。

 どんな子供でも小学生の時代は、教壇に立つ先生は、本当に選ばれた人間が成っていると勘違いしているだろう。そこに立っているのは選ばれた人間ではなくそこいらを歩く大人に少し教育という名前の教育を受けた人間が立っているだけなのである。何も偉くもなく時と場合ではそこら辺を歩く兄ちゃんや姉ちゃんと同じ考えを持っているのだ。それを判らないように前に立ち偉そうに説教を垂れる人間であるということを子供たちに教えてあげたい。

 授業で道徳の教科書を読み、こうしなさいと説教を垂れるかもしれないが、少なくともその言葉を多くの子供の前で言える大人はいない。少なくとも一度や二度以上は社会のルールを犯してきたこと(赤信号を無視して横断歩道を渡るでも良い)は必ずあるはずである。

 それでも授業では、一台も車が通らない時間帯でも赤信号を守りなさいと教えなければならないのだから、拷問と同じである。そんな時間を毎日繰り返せば、日常自粛していることの反発でルールを破りたくなるのは良くわかる。


 だけど、やはり小中学生の教師がそういった考えをもって子供たちを教えているのはやはり危険だと思う。そういった趣向の男の前に餌をばらまいているようなものだからである。やはり勘弁願いたい。

 初めにも書いたように、教師もただの人間の一人である。問題行動を起こす人間もやはり多い。反面教師という言葉があるように物事の判断を教育するのに問題教師は必要であるが、小学生などはやはり純粋培養された子供が多く存在し、汚れた大人の社会を経験していないのも確かである。そういった汚れた大人の社会をどうやって見せるかも教育の一環だとしたら、今回の事件はやはり子供たちに教えるべきなのかもしれないが、何となく教師がいなくなって終わりになるのだと思う。積極的に今回の教師が何故犯罪に問われ教師を辞めなくてはならなくなったかを子供たちに教えられるかだろう。

 今回は中学教師なので、中3くらいになればそれは当然知識としてあるわけで、今回の出来事をどうやって担当していた中学生に教えるかも大切だろうと思う。

 しかし、これも何となく説明の無いまま時間が経ち騒ぎが収まるのを待つというやり方で終わるのだろうと思う。