新聞

 曇り、気温7度。

 このところテレビを見ながらそのままソファに横になり朝までという日が続いている。ゴールデンウイーク中に見ようと思っていた録画が溜まり、それを消化する日が続いている。そのため、クラシコもまだ見ずにいる。


引用 朝日新聞https://www.asahi.com/articles/ASL574TNGL57UTFK00R.html) 

野党が8日の衆院本会議から、19日ぶりに国会審議へ復帰することを決めた。麻生太郎財務相の辞任などを求めて審議拒否を続けてきたが、展望は一向に開けない。与党が強硬な姿勢を崩さない中で、満額回答にほど遠いまま正常化に応じざるを得なかった。

 この記事を見て、日本は本当に平和のお花畑が咲いているなとつくづく思う。国会が正常機能しないで国が運営できるのだからたまげたもので、ある意味官僚が主導をとって国が運営されていることを実感する。

 国会は、官僚が必要とする法律を決めるだけの役割しかなく、官僚が困るのは、自分たちが必要とする法律が決まらない事だけで、その審議も国会議員が真摯に向き合って決まるのではなく、傍でモリカケ議論をしている間に決まっているだけである。

 その法律の必要性についてきちんと話し合われた判らないまま決まっても問題ないのなら国会議員の役割は何と思うのは当たり前のことである。

 そして、その国会議員、特に野党の審議拒否を進めるような新聞社が存在し、国会議員の役割を働かないことが正義のような記事を書くのも、平和である。

 朝日新聞も反安倍を旗印にしているため、近視眼的になっており、どこの国の新聞か判らないくらいであり、特定の利益の代表者としての振る舞いが目に付くようになって来た。

 これも新聞が売れなくなり、朝日新聞の購読者層に好まれる編集を行えば行うほどよりその記事の方向性がニッチになっていくのは当たり前のことなのだろうと思う。以前はあったバランス感覚を既に失ってしまった。

 もう一つ危惧するのは、社内の人間の思想が偏ることで記事の質も落ちてきてしまっていることである。起承転結にきちんとまとめられた名文が少なくなっている。

 記事というのは、社会面の事実を淡々と書くことが優先されるものとは別に、それ以外の物は如何に読者に隅々まで読ますかというある意味読者への戦いを挑まなければならない。

 見出しで読者の気を引き、更にその内容で唸らせなければならない。見出しが興味を引いても意味のない記事なら負けである。そういった覚悟で記事を書く記者が少なくなっているのだろう。

 だから、このところずーっと甲子園の記事を連載している理由もわかる。今年が記念大会というのもわかるし、朝日新聞が音頭を取って始めた大会を盛り上げたいという気持ちが伝わってくる。しかし、それが終わった後何が残るというのだろうか?

 甲子園大会で問題となっている。炎天下の日中に高校生を美談で飾りながら試合をさせるというある意味パワハラのような大会を永遠に続けようと考えているのだろうか?

 大会期間の関係で、優勝投手は連投に次ぐ連投で肩や肘に故障を抱えさせ将来の夢をつぶすことも朝日新聞は、その記事の中で当たり前のように書く。

 その記事の裏側に流れる、新聞社の自分たちの利益、更に高校野球関係者の名誉欲や利権が透けて見えてくる。有名監督もジプシーのように高校を渡り歩いているのだなとか、選手を自分の利益のために酷使しないと優勝という権利を得られないとか、その実態を赤裸々に書けばよいのに、全て美談にまとめ上げるそのつらの顔を厚さを恥じないことも大事なのだなとつくづく思う。


 人の世は、誰かの利益のために動いているのだなと感じさせる。自分もその社会の一員であることは間違いない。