『この世界の片隅に』

 小雨、気温は20度。

 今、テレビドラマを録画している作品に『この世界の片隅に』がある。このドラマの原作は、漫画で更にアニメ映画となり、丁度、前々世界にで話題となった『君の名は』と同じころ公開され、今も公開され続けているロングラン映画となっている。

 そんなことをネットで知り、今回のドラマを録画してみることにしたのである。調べてみると1度、北川映子さん主演で日本テレビ終戦記念日SPドラマとして一度ドラマ化されているが見た記憶は無い。

 ドラマは、広島県を舞台に戦争中の日常が綴られたものである。一言で言えばそうなのだが、戦争映画と言っても最初の方は、遠くで戦争が行われており日本の中ではある意味別世界の出来事のように時は流れていたのだろうと感じさせる日常が描かれている。

 戦争中であるという雰囲気は、港に戦艦が何隻も浮かんでいたり、配給、憲兵などの舞台背景として描かれているだけで、戦時中のドラマに付きものの出征兵士を見送るシーンとか、その頃流れていただろうである大本営発表のようなものは使われていない。

 戦時中も国内で戦争が無ければ、そこに暮らす人はある意味今の日常と変わらない生活を送っていただろうと感じさせるものである。

 戦争中も役者さんが身に着けている着物は綺麗でピンとしている所などに少し違和感を感じるが、もしかすると戦時中もそれなりに物資が豊富で洗濯なども行き届き、アイロンがけなどもしていたのかもしれないと感じるが、今までの戦時中のドラマの身なりが極端に見すぼらしいもの過ぎたのかもしれない。子供などは必ず顔に泥の様なものをこすりつけられていたように思うし、男の子はランニングに半ズボンというのが定番で、女の子は、白いシャツにモンペのようないでたちでは無かったかと思う。

 本当は戦時中もそれなりにおしゃれをしていたのかもしれないが、当時の話として聞いていたのが、富国強兵、八紘一宇、欲しがりません勝までは、などの標語にそって質素な生活が求められていたのではないかと思うからである。


 ここまでは、そういった戦争とは別ののどかな感じの田舎の風景にそって話は進んでいるためそこに戦争反対などの前面にメッセージ性を押し出した作りにはなっていない。

 しかし、これからの後半は、そういった戦争への関わりを直接描写していない展開から180度変わり、空襲、広島の原爆と続き、今までののどかな部分を消し飛ばす流れとなっていくようである。


 この原作の『この世界の片隅に』という題名は、日本は戦争という行為で他の国と戦いながらもすべての人がその渦中にあったわけではない。日本のどこかで大地震が起き大変な被害にあっているときでもその影響をあたかも受けていないような地域も存在すると同じように、戦争という殺し合いが行われている傍らでも人々は普通の生活をしようとしていることを象徴しているのではないかと思う。

 今の時代でも、この世界のどこかで武器を持ち、相手を滅ぼそうと殺し合いをしている筈である。却ってその戦争こそが日本人にとって世界の片隅で起きている事件なのだろう。

 日常と非日常の世界は本当にきちんと分けられている訳ではなく、突然その中に放り込まれてしまう場合もある境界の無い空間である。

 映画で良くある、一般家庭の普通の生活の場面に悪役やヒーローが飛び込み、部屋の中を横切って部屋をめちゃくちゃにしていく、或いはそこで犠牲になったりしてしまう。それこそその家庭で食事をしている人達にとって非現実的な世界に突然投げ込まれたようなものである。

 その突然の展開がこのドラマの主題でもあるのだろうと思う。戦争という非日常的な行為が突然自分たちの前に提示され、今まで平穏だと思われていた生活は、保障されたものではないという現実を突きつけられ右往左往する姿が描写されるのではないだろうか?

 平穏をどちらの視点でとらえるのか?戦争反対のゴリゴリのイデオロギーを主張をするのなら、誰かの死を強調し今までの平穏な生活を返せと主人公に叫ばせるのだろう。

 もし、前半の流れで行くのなら、そういった戦争という背景の中で、その流れの中で主人公もまた以前有った平穏を取り戻そうと淡々と元の生活に戻る努力を描くのだろうと思う。

 ただし、このドラマが終戦記念日の時期に流されることを考えると、やはり戦争反対のメッセージを大きな主題として視聴者に伝えなければならないと頑張るのだろうと思う。それがこのドラマの盛り上がりのテーマだと演出家は考えているだろう。


 きっと戦争反対に感じる逆の息苦しさを感じてしまうとなるなら見ている人の期待を裏切る結果になるのではないかと思う。淡々と日常生活を送っていた日々にまた吸収されてしまうことこそ見る人に戦争というものを考えさせるのではないだろうか。

 きっと『半沢直樹』のようにドラマの中の決め台詞を演出家は考えているのだろうなと思う。