冬至と地動説

 曇り、気温はマイナス10度。

 暦は過ぎ、明日は冬至である。昼と夜の長さが同じということは、丁度太陽に面する時間が自転に対して半分ということになる。

 アメリカでは、天動説を信じる人がまだいるということだが、太陽の日の出から日の入りの時間が日がたつごとに変化し、一年という区切りで繰り返すことをどのように理解しているのだろうか気になる。

 ゼンマイ仕掛けのオルゴールの人形のように天井が動く世界を創造したのだろうか、それともステージの書き割りのように場面転換する世界を創造したのだろうか。


 我々の世界は何時までも不変であると想像し、大きな外の世界があることを知らなければそれもありだろう。それは、それを想像する人のどこかからどこかへ行く移動手段をどのように持っているかによって変わる。

 しかし、最初に地動説を唱えたとされるサモスのアリスタルコスが生きていた時代は紀元前のことなので、移動方法が徒歩であったか馬やロバなどの家畜であったか知らないが、一日で移動できる距離は、最大でも7、80㎞だっただろう。それがその時代に暮らす人にとって世界の限界だっただろう。

 その中で世界の広さを知り旅する夜空に広がる満点の星を見ているうちに地球はあの空に浮かぶ瞬きの一つと同じではないかと考えた人がいたとしても不思議ではない。

 空に浮かぶ星が月によって隠されること自体不思議な光景である。更に金星や火星が季節により移動することは、よく観察していればある一定の規則があると感じただろう。

 我々が見ている星空が何時までも不変かどうか、そのころの人間の寿命が4、50歳だった時代に生きる人にとって人生と同じ時間を観察に費やさなければそれは不可能であり、それを誰かに伝えていかなければそれは広まっていかない。今の時代のように情報が瞬時に伝わるような世界とはまた違った困難さがある。

 我々が知る限り昔の時代にだれが地動説を信じていたかは判らない。歴史に埋もれて名前も知らない天才が数多く存在したのだろう。